第五話 反閇、地を踏む 03
夜になれば、鬼が出る。
そう信じられていた時代の、話です。
平安京。都でいちばん広い朱雀大路でも、夜になると誰も歩きません。歩けば、何かに遭うから。
それは物の怪か鬼か、それとも……。
この物語の主人公は、その大路を、二十年、歩きました。
誰にも、見つからずに。
派手な術も出ますが、この話の芯にあるのは、もっと別なもの。
――どうか、最後まで。
この小説は実在の人物・事件をモチーフにしたフィクションです。
この作品はカクヨムでも同時投稿しております。
九 嘘をつく背中
その日の夕暮れ、忍が一人で庭の隅に座り込んでいると、早苗がやってきた。
彼女は、何も言わずに、隣に腰を下ろした。しばらく、二人で、暮れていく空を見ていた。
「……あたし、兎しか出せないの」
やがて、早苗が言った。
「三年、晴明様のところにいて、兎一匹。夢ばっかり視えて、肝心の術はさっぱり。昼間、綱様の人型を見て、正直、へこんだ」
忍は、返す言葉が見つからなかった。
「でもね」
早苗は、膝を抱えた。
「あなたのほうが、ずっと、つらそうな顔してた」
忍の肩が、びくりと動いた。
「あたしは、出せないのが悔しかっただけ。あなたは、違うでしょ。出せるのに、出さなかった。あんな、みんなに憐れまれながら」
「……」
「ねえ、忍。それって、どんな気持ち?」
忍は、長いこと黙っていた。
それから、絞り出すように、言った。
「汚い、気持ちだ」
「うん」
「綱様は、俺のために、ひと月『走れ』って言い続けてくれた。貞光様は、紙を千枚も無駄にさせてくれた。金時様は、庇ってくれた。その全部に、俺は、嘘で返してる」
忍は、自分の掌を見た。豆だらけの、まだ子供の掌を。
「路地裏じゃ、嘘は、米より大事だった。嘘つかなきゃ、死ぬから。でも、あそこには、俺に良くしてくれる人なんて、いなかった。だから、誰も裏切らずに済んだ」
「……」
「今は、違う。嘘をつくたびに、誰かを裏切ってる。俺、ここに来て、初めて、自分が卑怯者だって知った」
早苗は、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「じゃあ、あたしが、証人になる」
「え?」
「あなたが、嘘をついてる理由を、あたしだけは知ってる。あなたが卑怯者じゃないってこと、あたしだけは、知ってるから」
早苗は、そこで、少し笑った。
「一人で嘘をつくのは、たぶん、すごく寒いよ。二人なら、少しはましでしょ」
忍は、息だけを吐いた。
ただ、暮れていく空を見ながら、こっそりと、目のふちを拭った。
* * *
十 出さぬための、血
その夜、忍は、晴明に呼ばれた。
母屋のいちばん奥の一室。晴明が一人で使う、書物だらけの部屋である。忍が入ったことのない場所だった。
晴明は、灯りの下で、古びた巻物を広げていた。忍が入ってくると、それを、さりげなく巻いて、脇に置いた。
「座れ」
忍は、座った。
誰も、次の言葉を持っていなかった。
「昼のことを、責めているのなら」
耐えかねて、忍が口を開いた。
「すみません。俺は、皆さんに、嘘を」
「忍」
晴明は、遮った。
「お前は、なぜ、式を宿せぬのだと思う」
忍は、答えられなかった。宿せぬのではない。隠しているのだ。それは、この人も、とっくに知っているはずだ。
だが、晴明は、忍の答えを待たずに、続けた。
「宿せぬのではないぞ、忍」
灯りが、じじ、と鳴った。
「お前の血は、“出さぬ”ためにこそ、研がれてきたのだ」
忍は、顔を上げた。
「どういう、意味です」
「陰陽師の術というのはな。突き詰めれば、“出す”技だ」
晴明は、指を一本立てた。
「式を出す。符に力を出す。声に出して九字を斬る。祭りを出して神を招く。皆、内から外へ、出すのだ。だから陰陽師は、内に溜め、外へ出す器として、己を鍛える」
晴明の指が、忍を指した。
「だが、お前のは、逆だ。お前の血は、出さぬために研がれた。籠めるために。閉じるために。隠すために」
「隠す、ため」
「隠形も、遁甲も、そうだろう。己を消し、方位を渡り、痕跡を残さぬ。お前が息をするように隠せるのは、お前がそういう血を引いているからだ。誰に教わったわけでもないのに、生まれつき、消えられただろう」
忍の腕に、鳥肌が立った。
そのとおりだった。物心ついたときには、消えられた。なぜだと、考えたこともなかった。それが、当たり前だったから。
「……俺の、血」
「そうだ」
「俺には、親がいません。名前だって、誰につけられたのかも知らない。血なんて、あるんですか。俺に」
晴明は、白砂を、指で撫でていた。
そのかわり、彼は、脇に置いた巻物を、指先で、とん、と叩いた。
「昼間、庭で反閇を踏んだとき。地が、応えたな」
忍は、息を呑んだ。忘れろと言われた、あのことだ。
「あれはな、忍。都が、お前を、“知っている”ということだ」
部屋の空気が、凍った。
「どういう、ことです」
「言えん」
「晴明様!」
「言えんのだ、忍」
晴明の声には、初めて、疲れのようなものが混じっていた。
「今のお前に言えば、お前は死ぬ。それだけは、言える」
忍は、拳を握った。
「じゃあ、いつ、教えてくれるんですか」
「お前が、その二羽を、人前で解けるようになったときだ」
忍の胸の奥で、何かが跳ねた。
――やはり。この人は、知っている。
初めて、はっきりと、口にされた。忍は、白を切ることも、言い訳することも、できなかった。ただ、俯いた。
「いつから、気づいて」
「最初の夜からだよ」
晴明は、あっさりと言った。
「路地裏で、お前の懐から漏れた光を見たときからな。あんな光を漏らす“雛”が、この世にいるものか」
「なら、なぜ」
忍の言葉が、うまく並ばなかった。
「なぜ、取り上げなかったんです。あなたなら、できたはずだ。俺みたいな路地裏の子供から、二柱の天将を奪うくらい」
忍を見る目が、動かなかった。
それから、ぽつりと言った。
「取り上げられるものか。あれは、お前を選んで、そこにいるのだから」
忍は、目を見開いた。
問い返そうとした。だが、晴明は、もう、いつものどこ吹く風の顔に戻っていた。
「さあ、帰って寝ろ。明日も走るのだろう」
* * *
十一 緋の、癇癪
局に戻ると、緋が、爆発した。
といっても、雛の姿である。忍の枕を、小さな嘴で、ぽすぽすと殴りつけ、羽を膨らませ、ぷう、ぷう、と鳴いている。
だが、笑えなかった。
緋が羽を震わせるたび、局の空気が、ゆらり、と歪んだ。畳が、じり、と焦げた。忍の手の甲に、ちりり、と痛みが走る。見れば、赤い点が、いくつも散っていた。火の粉だ。
雛の、癇癪である。それだけで、部屋が焼けかけている。
忍は、慌てて緋を掌に包み込み、その熱を、自分の体で押し殺した。掌が、じゅう、と鳴った。
「……怒ってるのか」
緋が、忍を睨んだ。まんまるな目で。
昼間のことだ、と忍にはわかった。皆の前で、忍が「式を宿せぬ劣等生」として立たされ、憐れまれ、庇われたこと。緋は、それが我慢ならないのだ。
「ごめんな」
忍は、緋を掌にのせた。
「おまえは、悪くない。俺が、出さないだけだ。悔しいよな。おまえは、こんなに強いのに」
緋は、ぷい、とそっぽを向いた。それから、しばらくして、忍の指を、こつん、と嘴でつついた。拗ねながら、それでも、慰めるように。
翠が、そっと近づいてきて、緋の隣に並んだ。何も言わない。ただ、いる。翠は、いつもそうだった。
忍は、二羽を並べて、しばらく眺めた。
お前が飼っているのではない。お前が、選ばれたのだ。
晴明の言葉が、頭の中で、まだ響いていた。
選ばれた。俺が? この、名もない、路地裏の塵のような子供が? なぜ。何のために。
その意味を知って、たぶん、お前は絶望する。
忍は、緋と翠を、そっと、懐へ入れた。二羽の温もりと、涼しさが、胸に触れる。
どんな意味があろうと、と忍は思った。
どんな血を引いていようと。都が俺を知っていようと。この二羽を手放すことは、しない。それだけは、決まっている。
なら、やることは、ひとつだ。
強くなる。
人前で、堂々と、この子たちを解けるくらいに。そうすれば、晴明様も、話してくれる。俺が何者なのかを。
忍は、痛む足で、また立ち上がった。
夜の庭へ出て、白砂の上に立つ。
そして、静かに、左足を踏み出した。
どん。
地が、応えた。
忍は、夜の庭で、七歩を踏み終えた。
地の響きは、昼間より、ずっと小さかった。加減を、覚えたのだ。大きく響かせれば、また“あれ”が目を覚ます。忍は、それを、直感で理解していた。
――今日は、これくらいで。
汗を拭い、忍は空を見上げた。細い月が、屋根の向こうにかかっている。
いつか、この足で、あの“何か”の正体まで、歩いていく。そのときは、緋と翠を、隠さずに連れて。
それは、名もなき路地裏の子供が、生まれて初めて抱いた、遠い目標だった。
母屋のいちばん奥の一室で。
灯りを落とした暗がりの中、晴明は、脇に置いていた巻物を、もう一度、広げていた。
古い、古い巻物だった。虫食いだらけで、文字は半ば消えかけている。
その表題には、こうあった。
『刀岐氏系譜』
庭のほうから、ずうん、と地の鳴る音が届く。晴明は、顔を上げ、その方角を、じっと見た。
そして、誰にともなく、呟いた。
「早すぎる。まだ、早すぎるぞ、忍」
灯りの消えた部屋で、その巻物だけが、暗闇の中に、ぼう、と青白く浮かび上がっていた。
――第五話 了――
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




