第三話 辻に百の目 02
夜になれば、鬼が出る。
そう信じられていた時代の、話です。
平安京。都でいちばん広い朱雀大路でも、夜になると誰も歩きません。歩けば、何かに遭うから。
それは物の怪か鬼か、それとも……。
この物語の主人公は、その大路を、二十年、歩きました。
誰にも、見つからずに。
派手な術も出ますが、この話の芯にあるのは、もっと別なもの。
――どうか、最後まで。
この小説は実在の人物・事件をモチーフにしたフィクションです。
この作品はカクヨムでも同時投稿しております。
四 見えないものを、見る
忍は、辻の隅で、身を伏せていた。
戦わなくていい。見てこい。晴明の言葉が、耳に残っている。
だから忍は、見た。目ではなく――気配で。
そっと息を沈め、輪郭を溶かし、自分を辻の闇へ紛れ込ませる。隠形。消えた忍の内側で、辻の“気配の地形”が、じわりと描かれていく。
そして、すぐに気づいた。おかしい。
この化け物、気配が、薄い。
あれほどの巨躯である。あれほどの目玉が、こちらを睨んでいる。なのに、気配としては、驚くほど希薄なのだ。まるで、大きな影法師を見ているような。実体の重みが、ない。
では、この巨躯を動かしている“重み”は、どこにある。
忍は、地形を辿った。塊の胴。違う。首。違う。無数の目玉。どれも、違う。どこにも、核がない。
もっと、下だ。
忍の意識が、辻の地面を、井戸を、地蔵を舐めていく。そして、
あった。
辻の中央、朽ちかけた地蔵の足元。そこに、ぽつりと。ひどく小さいのに、ひどく重い、気配の“芯”があった。塊が動くたび、その芯から、細い糸のようなものが伸びて、巨躯の隅々へと張り巡らされている。
巨躯は、囮だ。あれは、殻。この芯こそが、本体。
忍は、消えたまま、じりじりと辻の中央へ這い寄った。
だが、百の目のうちのいくつかが、ぎょろりと動き、忍のほうを向いた。
忍の胸が、詰まった。
あの夜と、同じだ。人ならぬものには、隠形が通じない。
いや。
忍は、歯を食いしばった。あのときと、今とでは、違う。あのときは、ただ震えて逃げるだけの子供だった。今は、この半月、来る日も来る日も、庭の気配を読み続けた。晴明の式神の、隠れ方さえ見抜いた。
通じないなら、通じるやり方に変えるまでだ。
だが、どう変える。
忍は、迫る目玉を見ながら、必死に考えた。こいつには、何が“見えて”いる。人には見えない何かを、こいつは見ている。それは、なんだ。
目玉が、辻を舐めていく。
そのとき、忍は、あることに気づいた。
化け物の目は、忍を見る。綱を見る。金時を見る。貞光を見る。……だが、足元に散らばった壺の欠片は、見ていない。踏みつけている錆びた鍋も、見ていない。それらは、こいつの体の一部であるはずなのに。
こいつは、“いらないもの”を、見ない。
当たり前だ、と忍は思った。こいつ自身が、捨てられた器物の塊なのだ。捨てられたものが、捨てられたものを見て、どうする。こいつが見ているのは、自分たちを捨てた側――今も誰かに必要とされ、温もりを持って生きている、そっちだけだ。
人は、人を見る。だから忍は、人の目から消えられた。
なら、こいつは。
こいつは、“まだ数えられているもの”を、見ている。
忍の背に、震えが走った。答えが、そこにあった。
消えるのでは、だめだ。こいつの目は、消えた気配すら追ってくる。だが、
見る値打ちが、なくなればいい。
忍は、自分を消すのをやめた。かわりに――自分の気配を、辻に散らばる“器物”の側へ寄せた。捨てられた壺。錆びた鍋。忘れられた沓。誰にも顧みられず、そこに“ある”だけのもの。忍が、路地裏でずっとそうであったように。
いないふりを、するのではない。
“もう、要らないもの”に、なる。
それは、隠形とは似て非なるものだった。消えるのではない。そこに在りながら、“見る価値のないもの”に落ちる。人の目に対しては、忍はずっと、消えることで生き延びてきた。だが、この化け物が見ているのは、人ではない。捨てられた器物の側から、世界を見ている。ならば――器物の同類になればいい。
忍の気配が、辻に転がる無数の古物と、見分けがつかなくなった。
百の目が、す、と忍から逸れた。
* * *
五 芯
忍は、地蔵の足元に、辿り着いた。
そこにあったのは、一本の、櫛だった。
黄楊の櫛。歯が幾本か欠け、漆はほとんど剥げ落ちている。だが、その背には、丁寧に彫られた花の文様が、まだかすかに残っていた。誰かに、大切にされていた櫛だ。長く、長く、使い込まれた櫛だ。
そして、その櫛から、細い糸が――百の目を持つ巨躯へ、無数に伸びていた。
忍は、震える手で、櫛を拾い上げた。
その瞬間、忍の頭の中へ、なだれ込んできたものがあった。
声だ。
言葉ではない。もっと、かたちのない、感情の塊。
寂しい。寂しい。寂しい。
なぜ、捨てた。なぜ、忘れた。あんなに、毎朝、髪を梳いてくれたのに。あんなに、大事にしてくれたのに。ある日、ぽい、と。いらないものとして。
毎朝、鏡の前で。まだ暗いうちから、あの人は私を手に取った。長い髪を、丁寧に、丁寧に。歯が一本欠けたときも、捨てずに使ってくれた。漆が剥げても、笑って使ってくれた。私は、その手の温もりを、覚えている。ずっと、覚えている。
なのに、ある日。新しい櫛が来た。それだけのことで、私は、塵の山へ。
どうして、誰も、私を数えてくれないの。
忍は、息を呑んだ。
その嘆きを、忍は、知っていた。
骨の髄まで、知っていた。
名を呼ばれず、数えられず、いてもいなくても同じものとして、路地裏の隅に転がっていた、あの日々。凍えて死んでも、誰も気づかない。それが当たり前だと、思っていた。忍にとって、この櫛の嘆きは、他人事ではなかった。
「おい、小僧! 何をしている、離れろ!」
貞光の声が、遠くで聞こえた。百の目が、いっせいに忍を向く。巨躯が、ぐるりと身をよじり、闇の触手が、いっせいに忍へ殺到した。
忍の懐で、緋が、爆ぜるように身を起こした。もう、抑えきれない。飛び出そうと羽を広げる。翠が、必死にそれを押さえようとしている。
「(――緋、まだだ!)」
忍は、叫んだ。だが、それは緋に向けた言葉であって、迫る触手を止めるものではない。
逃げろ、と本能が叫んでいた。消えろ、と。それが、忍の生き方だったはずだ。危ういときは、消える。何も見ない。何も背負わない。そうやって、十年以上、生き延びてきた。
だが、掌の中の櫛が、震えていた。まるで、泣いているように。
消えたら、こいつは、また誰にも数えられないまま、斬られて終わる。
忍は、櫛を、ぎゅっと胸に抱いた。そして、逃げなかった。
かわりに、彼は、口を開いた。
「お前、名前は」
触手が、止まった。
ぴたり、と。ほんの、一瞬。
だが、百の目が、その一瞬、いっせいに瞬いた。まるで、聞き間違いを疑うように。
「捨てられたんだろう。忘れられたんだろう。知ってる。俺も、そうだった」
忍の声は、震えていた。それでも、続けた。
「誰にも数えられないのが、どんなに寒いか、知ってる。だから――教えてくれ。お前の、名前は」
辻に、しん、と沈黙が落ちた。百の目が、忍を見つめていた。
そして、
巨躯が、崩れはじめた。
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




