第三話 辻に百の目 01
夜になれば、鬼が出る。
そう信じられていた時代の、話です。
平安京。都でいちばん広い朱雀大路でも、夜になると誰も歩きません。歩けば、何かに遭うから。
それは物の怪か鬼か、それとも……。
この物語の主人公は、その大路を、二十年、歩きました。
誰にも、見つからずに。
派手な術も出ますが、この話の芯にあるのは、もっと別なもの。
――どうか、最後まで。
この小説は実在の人物・事件をモチーフにしたフィクションです。
この作品はカクヨムでも同時投稿しております。
一 人が、消える辻
六合に入って、半月が過ぎた。
その半月、忍がしていたことといえば、掃除と、水汲みと、書物の運搬だった。朝は誰よりも早く起きて庭を掃き、昼は貞光に言いつけられて呪符の材となる紙を数え、夜は季武に頼まれて古びた巻物を蔵から運ぶ。陰陽師の修行らしいことなど、何ひとつしていない。
「そりゃそうさ」と季武は笑った。「六合の仕事は、しくじれば人が死ぬ。半月やそこらの小僧を、いきなり連れて行けるものか」
もっともな話だった。忍に不満はない。屋根の下で眠れて、日に二度も飯が食えるのだ。路地裏の暮らしに比べれば、天国のようなものである。
もっとも、雑用にも発見はあった。掃除をしながら、忍は屋敷の気配を覚えていった。どの廊に式神が通り、どの蔵が呪で守られ、どの部屋の前で空気が張りつめるのか。誰に教わったわけでもない。ただ、隠れて生きてきた者の癖で、忍は場の“地形”を読まずにいられなかった。貞光に紙を数えさせられれば、呪符の材の善し悪しが指先でわかるようになり、季武に巻物を運ばされれば、その表題だけは自然と頭に入った。
だが。
夜、局に戻って一人になると、忍はときどき、掌を見つめた。この手は、掃除と水汲みのためにあるのか。それとも。
緋が、慰めるように、忍の指をつついた。翠が、静かに寄り添う。二羽とも、忍が何を思っているのか、わかっているようだった。
その日、屋敷の広間に、六合の全員が呼ばれた。
晴明は、いつもの飄々とした調子のまま、しかし目だけは笑わずに、こう切り出した。
「西の京、七条の辻でな。人が、消えている」
広間の空気が、す、と冷えた。
「この十日で、十七人。夜、あの辻を通った者が、そのまま帰らぬ。骸も出ぬ。血の跡もない。ただ、消える」
「神隠しですかい」と綱が唸る。
「そう呼ぶ者もいる。検非違使が調べたが、何も出なかった。昼に行けば、なんの変哲もない辻だ。だが、夜になると――」
晴明は、扇で膝を軽く打った。
「百の目が、開くという」
* * *
二 初任務
晴明が挙げた出動の名は、四つだった。綱、金時、貞光、そして、
「忍。お前も行け」
忍は、耳を疑った。広間の全員の視線が、いっせいに新入りへ集まる。
「晴明様!」
声を上げたのは、貞光だった。案の定、という顔で。
「正気ですか。あの小僧は、式神ひとつ出せんのですよ。付喪神の群れの中へ、丸腰の子供を放り込むようなものだ。足手まといにしかならん」
「そうかもしれん」
晴明は、あっさりと頷いた。忍の胸が、ずきりと痛んだ。
「だが、この一件、力ずくでは解けん気がしてな。忍。お前は、戦わなくていい。見てこい。あの辻に、何が“ある”のかを」
見てこい。それだけが、忍に与えられた役目だった。
貞光が、忌々しげに舌打ちする。金時は「まあ、いいじゃねえか」と忍の背を叩き――今度は、忍もなんとか耐えた――綱は、腕を組んだまま、何も言わなかった。
忍は、頭を下げながら、内心では戸惑っていた。
なぜ、俺なのか。晴明様は、何を知っていて、俺を行かせるのか。この半月、あの人は忍に、術のひとつも教えなかった。ただ、掃除をさせ、水を汲ませ、そして時おり、あの底の知れない目で、じっと忍を見ていた。まるで、いつ芽が出るかを待つ、庭師のように。
見てこい、か。
忍は、ぎゅっと拳を握った。戦えなくてもいい。見ることなら、できる。それだけは、路地裏で誰よりもやってきた。
出立の支度をしていると、簀子の陰から、早苗が現れた。
「行くの」
「ああ」
早苗の顔色は、ひどく悪かった。目の下の隈が、いつにも増して濃い。彼女は、しばらく口ごもってから、絞り出すように言った。
「昨日、視たの。夢で。黒い、たくさんの目。それが、ぜんぶ、あなたを見てた」
忍は、答えなかった。答えようがなかった。
「行かないで、なんて言えないのはわかってる。でも――」
早苗は、袂から、小さな紙片を取り出した。護符だ。彼女が、自分で書いたものらしい。文字は、少し歪んでいた。
「これ、持ってて。気休めだけど」
忍は、それを受け取った。掌の中で、紙は、まだ少しあたたかかった。
誰かに、何かをもらったのは、生まれて初めてだった。
* * *
三 百の目、開く
七条の辻は、夜の底に沈んでいた。
昼は、ごく普通の辻だという。井戸があり、朽ちかけた地蔵があり、道が四方へ延びている。だが今、その辻は、都のどこでもない場所のように、ただ黒々と口を開けていた。
風がない。虫の音もない。犬の遠吠えも、ここには届かない。
音が、死んでいた。
「来たな」と綱が低く言った。
辻の中央の闇が、ぐにゃりと、歪んだ。
それは、ゆっくりと立ち上がった。
巨大な、山のような塊である。だが、その体を成しているのは、肉ではなかった。器物だ。割れた壺、錆びた鍋、朽ちた琵琶、片方だけの沓、折れた櫛、擦り切れた草履――都の人々が、いらぬと捨てた、数えきれぬほどの古物が、どろりとした闇に絡めとられて、一つの巨躯を成している。
そして、その表面には、
目が、あった。
一つや、二つではない。百。あるいは、それ以上。器物のひとつひとつに、ぎょろりとした目玉が浮かび、それらがいっせいに、瞬いた。
忍の背筋が、凍りついた。この形。この気配。忘れるものか。
あの夜の、化け物だ。
幼い忍を路地裏で呑み込みかけ、緋と翠の力の欠片で辛うじて怯ませ、そして晴明が四角く封じた、あの付喪神の群れ。あれと、同じもの。いや、あのときよりも、遥かに大きい。
「なるほど、百の目か」
貞光が、札を扇のように広げた。
「行くぞ。急急如律令!」
貞光の札が宙を舞い、閃光となって塊へ突き刺さる。爆ぜる音。飛び散る器物の破片。同時に、金時が地を蹴った。その足元の土が、踏み込みの一撃で炎を上げる。轟音とともに、金時の拳が塊の胴を打ち抜き、抉り取った。綱の太刀が、闇の触手を三本まとめて薙ぎ払う。
凄まじい、と忍は思った。これが、六合の実力。
だが。
抉られた胴は、みるみるうちに、周りの器物を吸い寄せて、埋まっていく。斬られた触手も、ぶくぶくと泡立つように再生する。壊しても、壊しても、塊は減らない。それどころか、闘えば闘うほど、辻に散らばる器物を巻き込んで、大きくなっていくのだ。
「きりがねえ!」と金時が吼えた。
いや、それどころではなかった。壊された器物の破片さえ、闇に吸い戻され、塊の一部になっていく。金時の炎に焼かれた鍋が、真っ赤に灼けたまま巨躯へ戻り、貞光の札に貫かれた壺が、割れ口をぎざぎざの牙のようにして、触手の先へ生えた。壊せば壊すほど、この化け物は、凶悪になっていく。
触手の一本が、貞光の足を掬った。地に叩きつけられた貞光を、綱が跳び込んで庇う。太刀で受けた衝撃に、綱の巨躯が、ずずず、と後退した。
「ちっ、なんだこいつは! いくら斬っても手応えがねえ!」
綱の声には、初めて焦りがあった。忍は、その言葉に、引っかかりを覚えた。
手応えが、ない――?
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




