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第二話 六合の門 03

 夜になれば、鬼が出る。

 そう信じられていた時代の、話です。


 平安京。都でいちばん広い朱雀大路でも、夜になると誰も歩きません。歩けば、何かに遭うから。

 それは物の怪か鬼か、それとも……。


 この物語の主人公は、その大路を、二十年、歩きました。

 誰にも、見つからずに。


 派手な術も出ますが、この話の芯にあるのは、もっと別なもの。


 ――どうか、最後まで。


 この小説は実在の人物・事件をモチーフにしたフィクションです。

 この作品はカクヨムでも同時投稿しております。

五 「式神も出さずに」


 沈黙を破ったのは、札好きの若者、貞光だった。

「嘘だろう。式神も出さずに、晴明様の式を捕らえただと?」

 その声には、驚きと、そしてわずかな苛立ちが混じっていた。

「おい、小僧。お前、式神は。一体も出さなかったな。宿せないのか?」

 忍の背が、こわばった。来た、と思った。いちばん触れられたくないところに。

 忍は、努めて平静を装い、白蛇を晴明のほうへ差し出しながら、ぼそりと答えた。

「宿せません。俺は、消えることしか、できないので」

 半分は、本当だった。忍は、式神を“宿す”作法など知らない。ただ、緋と翠が、なぜか懐にいるだけだ。もう半分は、嘘だった。その二羽が、この場の誰の式神よりも、遥かに上位の存在だということを、忍は必死に押し隠していた。

 貞光が、鼻を鳴らした。

「けっ。隠形一本の、こそ泥剣法か。六合は、そんなお遊びの場じゃないんだぞ」


 だが、

「まあ、待て、貞光」

 制したのは、巌のような大男、綱だった。腕を組んだまま、忍をじっと見下ろして、低く唸るように言う。

「式神も、派手な術もなしで、晴明様の式を捕らえた。それも、力ずくじゃなく、頭で。俺は、悪くないと思うぜ。戦場じゃ、そういうのがいちばん生き残る」

 細目の季武も、くつくつと笑った。

「同感だね。だいたい、こそ泥剣法で何が悪い。私たちの仕事は、表沙汰にできない“こそ泥”みたいなもんだろう? むしろ適材適所さ」

 と、それまで黙って笑っていた赤ら顔の大男――金時が、忍の肩を、どん、と叩いた。悪気はないのだろうが、その一撃で、忍の膝は危うく砕けかけた。

「がはは! いいじゃねえか、坊主! おれぁ、気に入ったぞ。式神が出せねえだと? そんなもん、出せねえならほかで勝ちゃあいい。お前は、ちゃんとそうした。上等だ!」

 からりと明るいその声に、庭の空気が、ふっと和らいだ。忍は、叩かれた肩をさすりながら、なんと返していいかわからず、ただ、ぎこちなく頭を下げた。こんなふうに、屈託なく背を叩かれたことなど、忍の記憶には、一度もなかった。

「金時、手加減しろ。新入りが潰れる」と綱が呆れたように言い、

「潰れるようなら六合はつとまらんさ」と季武が笑う。

 貞光は、まだ何か言いたげだったが、やがて、ふん、と鼻を鳴らして、忍にだけ聞こえる声で、ぼそりと言った。

「……こそ泥剣法、せいぜい磨け。足を引っ張ったら、承知しないからな」

 それは、悪態のようでいて、どこか、認めの言葉でもあった。忍には、そうわかった。

 貞光が、ばつが悪そうに口をつぐんだ。

 簀子の上で、晴明が、ふ、と笑った。差し出された白蛇を、指先で撫でると、蛇は霧のように解けて消えた。

「見つけ方も、捕らえ方も、悪くなかった。お前、自分が消えるあいだ、周りの気配の“へこみ”が見えるだろう」

 忍は、どきりとした。図星だった。誰にも言ったことのない、自分の感覚。それを、晴明は事もなげに言い当てた。

「隠れる者は、隠れる者を見つける。お前の目は、そういう目だ。面白い。合格だよ」


*  *  *


六 視てしまう娘


 早苗の試験は、それから間もなく終わった。

 彼女は、逃げ回る式神を、夢占の力で先回りして追い詰め、最後は札で搦め捕ってみせた。危なげのない、堅実な捕り方だった。綱が「筋がいい」と褒め、貞光も満足げに頷いた。早苗も、合格だった。

 二人の新入りが決まり、先輩たちが引き上げていく。庭に、忍と早苗の二人が残された。

 気まずい沈黙のなか、先に口を開いたのは、早苗だった。

「ねえ」

 忍が振り向くと、早苗は、あの物憂げな目で、じっと忍を見ていた。試験のあいだ、忍を見て肩を震わせた、あの目で。

「あなた、何を連れているの」

 忍の鼓動が、速くなった。

「何も。連れてなんか、いない」

「嘘」

 早苗は、静かに、しかしきっぱりと言った。

「あたし、夢を視るの。眠っていなくても、視えてしまうことがある。さっき、あなたを見たとき、視えた。あなたの後ろに、二羽の、大きな鳥。片方は、燃える炎みたいで。もう片方は、静かな水みたいだった」

 忍は、答えられなかった。頬から、血の気が引いていくのがわかった。


 早苗は、忍の顔色を見て、ふと、目を伏せた。そして、思いがけないことを言った。

「……ごめんなさい。責めてるんじゃないの。あたしも、同じだから」

「同じ……?」

「あたしも、視たくないものを、視てしまう。この目のせいで、家でも、気味悪がられた。だから――隠したい気持ち、少しだけ、わかる」

 早苗は、膝の上で、また指を組んだり解いたりした。その目の下の隈が、なぜ刻まれているのか、忍にはなんとなく察しがついた。視たくないものを視てしまう夜は、きっと、眠れないのだろう。

「どうして」

 忍は、掠れた声で問うた。

「どうして、隠してくれるんだ。晴明様に言えば、褒められるかもしれないのに。あんな鳥を連れた新入りがいる、って」

 早苗は、少しだけ目を見開いて、それから、力なく微笑んだ。

「あたしがそうしてほしかったから、かな。視えるものを、全部そのまま口にしていたら、みんな、あたしを気味悪がった。“黙っていてくれたら”って、何度思ったか。だから、あなたには、しない。あたしがされて嫌だったことは」

 その言葉は、忍の胸の、思いがけず深いところに触れた。隠すことを、責めない人間が、この世にいる。それだけのことが、忍には、ひどく新しかった。

「あなたの秘密、誰にも言わない。あたしの秘密と、交換。それで、どう?」

 忍は、しばらく、早苗を見つめた。

 人を信じるのは、忍にとって、いちばん苦手なことだった。信じたものから、いなくなる。それが路地裏の掟だった。だが、この娘の、視たくないものを視てしまう目は、忍の、隠さずにいられない性と、どこか似ていた。

 忍は、ほんの少しだけ、頷いた。約束、というには、あまりに小さな仕草で。それでも、早苗は、ふ、と、初めて表情をやわらげた。


*  *  *


七 半人前の、はじまり


 その夜。

 あてがわれた小さなつぼねで、忍は一人、天井を見上げていた。三日前まで、崩れた塀の陰で眠っていた自分が、屋根のある部屋で、夜具にくるまっている。まだ、現実味がなかった。

 懐から、緋と翠が這い出してきて、忍の枕元にちょこんと並んだ。緋が、甘えるように忍の頬をつつく。翠は、心配そうに、まんまるな目で忍を見上げている。

「……今日は、危なかったな」

 忍は、二羽の小さな頭を、指先でそっと撫でた。

「あの娘に、おまえたちのこと、見抜かれた。晴明様にも、たぶん、とっくにお見通しだ。ここは、路地裏よりずっと、隠しごとがしにくい」

 緋が、不服そうに、ぷう、と羽を膨らませた。まるで、「いつまで隠すのか」と抗議するように。忍は、苦笑した。

「わかってる。おまえは、暴れたいんだよな。でもな、緋。翠も。もう少しだけ、隠れていてくれ。俺が、おまえたちを出しても大丈夫なくらい、強くなるまで」

 翠が、なだめるように、緋の羽に、自分の羽をそっと重ねた。緋は、まだ不満げだったが、やがて、忍の首もとに身を寄せて、目を閉じた。

 忍は、二羽の寝息を聞きながら、ふと、昼間の早苗の言葉を思い出していた。――あなたの後ろに、二羽の、大きな鳥。片方は炎みたいで、片方は水みたいだった、と。

 早苗には、緋と翠が“大きな鳥”に視えたという。今はこんなに小さい、掌にのる雛なのに。あの娘の目は、この子たちの、まだ見ぬ本当の姿を、覗いてしまったのだろうか。いつか二羽が翼を広げ、都を焼き、都を守るほどの――そんな姿を。

 だとしたら、なおのこと、隠さねばならない。忍は、そっと、二羽の上に夜具の端をかけてやった。


 強くなる。

 その言葉が、忍の胸の中で、小さく灯った。

 路地裏では、ただ生き延びることしか考えなかった。消えて、隠れて、逃げるだけの日々。だが、今日、忍は初めて、自分の隠形が、誰かに認められた。逃げるためではなく、役に立つ力として。あの綱の言葉が、季武の笑いが、晴明の「面白い」が、忍の胸の奥の、冷えて固まっていた何かを、わずかに溶かしていた。

 窓の外では、都の夜が、静かに更けていく。どこか遠くで、犬が吠え、それきり、また静寂が戻る。三日前まで、あの闇の中に、忍もいた。名もなく、誰にも数えられず、ただ消えて生きていた。今も、忍は無名の新入りにすぎない。けれど、この屋敷には、忍の名を呼ぶ者がいる。忍の隠形を、面白いと言った者がいる。秘密を、黙っていてくれる者がいる。それは、路地裏には、ついになかったものだった。

 いつか。逃げるためではなく、守るために、この力を使えるようになりたい。緋と翠を、堂々と空へ放てる日が来るまで。それまでは、隠して、耐えて、少しずつ、強くなる。


 と、廊のほうから、足音が近づいてきた。

 忍は、反射的に、二羽を懐へ押し込んだ。戸が、無遠慮に開く。

 巌のような影が、そこに立っていた。綱である。

「起きてるか」

「は、はい」

 綱は、部屋には入らず、戸口から、何かを、ぽい、と放って寄越した。

 忍は、慌てて受け止めた。

 布だった。畳まれた、藍染めの狩衣。忍が今日着ていた、丈の合わないぶかぶかのものではない。

「季武に、寸法を測らせた。明日から、それを着ろ」

「え」

「六合の衣だ」

 それだけ言って、綱は、戸を閉めようとした。

「あ、あの!」

 忍は、思わず呼び止めていた。

「なんだ」

「なんで、俺なんですか。俺、式神も出せないのに」

 綱は、しばらく、戸口に立っていた。

 それから、ぼそりと言った。

「今日、縁の下に潜るとき。お前、季武が板を鳴らすのを、待ったろう」

 忍は、息を呑んだ。

 見られていた。誰にも見えていないはずの、あの一瞬を。

「あれはな、小僧。“消える技”じゃねえ。“戦い方”だ」

 綱は、それきり、戸を閉めた。


 忍は、しばらく、その狩衣を、両手で持ったまま座っていた。

 そして、そっと、袖に腕を通してみた。

 誂えたように、ぴったりだった。

 忍は、生まれて初めて、自分の寸法で仕立てられた着物を着た。それは、この世界のどこかに、忍の“かたち”のぶんだけ、場所が空けられた、ということだった。

 路地裏には、なかったものだ。

 誰にも数えられない子供に、寸法など、要らないのだから。

 忍は、袖口を、ぎゅっと握った。

 目のふちが、熱かった。


 六合の門を、忍は、くぐった。

 半人前の、長い道のりが、ここから始まる。


――第二話 了――


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

次話もお楽しみにしていただけると嬉しいです。

感想やご指摘をいただけると、今後の励みになります。


(更新:毎日22時投稿予定)

隠岐群青

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