第二話 六合の門 02
夜になれば、鬼が出る。
そう信じられていた時代の、話です。
平安京。都でいちばん広い朱雀大路でも、夜になると誰も歩きません。歩けば、何かに遭うから。
それは物の怪か鬼か、それとも……。
この物語の主人公は、その大路を、二十年、歩きました。
誰にも、見つからずに。
派手な術も出ますが、この話の芯にあるのは、もっと別なもの。
――どうか、最後まで。
この小説は実在の人物・事件をモチーフにしたフィクションです。
この作品はカクヨムでも同時投稿しております。
三 試験、はじまる
試験の内容は、単純だった。
「庭のどこかに、私の式を一体、隠した。見つけて、捕らえろ」
「手段は」
「問わん」
「刻限は」
晴明は、簀子の端に立てた香を、扇で指した。
「それが燃え尽きるまで。始め」
簀子の端で、細く立ち昇る香の煙。それが、刻限を計る時計がわりだった。
四人の先客――いや、彼らは新入りの品定めに立ち会う先輩たちらしい――が、一歩下がって腕を組む。試されるのは、忍と、早苗の二人だった。
早苗が、先に動いた。目を閉じ、こめかみに指を当てて、低く何かを唱える。すると、彼女の足元にぼんやりと光が滲み、庭の一角――築山の陰を指し示した。
「……あそこ。水の、気配」
夢占の力を応用した、気配の探索だろう。たいしたものだ、と忍は思った。だが、早苗が築山へ歩み寄ると、そこにいたはずの気配は、ふっと掻き消えた。晴明の式神は、探られたと察して、逃げたのだ。
「逃げ足の速い式だこと」
優男の季武が、細い目をさらに細めて笑った。
忍は、動かなかった。
その様子を見て、簀子の貞光が、鼻を鳴らした。「おい、あの小僧、突っ立ったまま動かんぞ。怖じ気づいたか」。季武が、細い目で忍を眺めながら、「さあて、どうかな」と含み笑いをする。早苗が築山のあたりで式神に逃げられ、途方に暮れているのとは対照的に、忍はただ、松の根方で、彫像のように立ち尽くしていた。傍目には、何もしていないように見えただろう。
だが、忍の内側では、目まぐるしく、庭のすべてが読み解かれていた。
庭の隅、松の木の根方に、じっと立ったまま。彼は、目を閉じていた。探すのに、目はいらない。忍が頼りにするのは、視覚ではなかった。
気配を消す者は、気配を読む者でもある。
自分が消えるとき、何が“ある”ことになり、何が“ない”ことになるのか。忍は、路地裏で嫌というほど、それを体で覚えてきた。消えるとは、周りの気配の“隙間”に、自分をはめ込むことだ。だから彼には、逆に見える。気配の、不自然な“へこみ”が。誰かが、気配を殺して、そこにいる――その痕跡が。
忍は、閉じた瞼の裏で、庭の“気配の地形”を描いていった。松のざわめきが作るさざなみ。池の面から立ちのぼる湿った気。築山の陰にわだかまる、ひやりとした澱み。早苗が探索の術を使うたびに走る、細い光の筋。そのすべてが、忍の内側で、一枚の見えない絵地図になっていく。路地裏で、追手の位置を音と気配だけで測り続けた、あの日々が、今、役に立っていた。
そして、その地図の中に、ひとつだけ、不自然な“空白”があった。
庭の空気の、ある一点。そこだけが、妙に“凪いで”いた。虫の音も、風のそよぎも、そこだけ避けて通るように。
いた。
築山でもない。池のほとりでもない。晴明が座る簀子の、すぐ真下。縁の下の闇に、その式神は身を潜めていた。誰もが庭を探しているあいだ、いちばん近く、いちばん盲点になる場所で、息を殺して。
俺と、同じやり方だ。
忍は、思わず口の端を上げた。隠れ方には、隠れる者の癖が出る。この式神は、忍によく似た隠れ方をしていた。だからこそ、忍にはわかった。
* * *
四 隠形の獲物
問題は、ここからだった。
見つけるのと、捕らえるのは、別のことだ。相手は、晴明の式神。気配を察すれば、また逃げる。並の速さではない。まともに追えば、香が燃え尽きるまで鬼ごっこを続けるのが関の山だろう。
忍は、考えた。追ってはいけない。ならば――
消える。
忍は、ゆっくりと息を吐き、意識を沈めた。自分の輪郭を、周りの気配へ溶かしていく。松の木の影と、地面の凹凸と、風の流れと、自分の境目を、なくしていく。
す、と。
忍の姿が、庭から掻き消えた。
簀子の先輩たちが、おや、という顔をした。細目の季武が、片眉を上げる。忍がどこへ行ったのか、四人の誰にも、もう追えない。
だが、忍の消え方は、ただ姿を隠すだけではなかった。
彼は、気配ごと消える。ということは、彼が近づいても、相手はそれに気づけない。人の目を欺くその術は、気配で身を守る式神に対してもまた、有効なのだ。あの辻の付喪神――理を外れた怪異には通じなかった隠形も、晴明の式神が“気配を読んで逃げる”類のものであるなら、話は別だった。
消えているあいだ、忍の体からは、あの心細さが、じわりと滲み出す。自分が“いない”ことになる、あの薄ら寒い感覚。だが、今日ばかりは、それを恐れなかった。むしろ、その希薄さを味方につけて、忍は闇へ溶けた。息すら、殺す。心の臓の鼓動さえ、気配の隙間へ沈める。
忍は、消えたまま、簀子の裏手へ回った。
問題は、潜り込む隙間だった。縁の下の入り口は、庭に面した一箇所きり。そこから入れば、真正面から蛇と向き合うことになる。気配を消していても、目の前に人が這い込めば、風は動く。土は鳴る。
忍は、待った。
やがて、簀子の上で、細目の季武が退屈しのぎに足を組み替えた。ぎし、と板が鳴る。
今だ。
その軋みが庭に響いた、まさにその瞬間に、忍は縁の下へ滑り込んだ。自分の立てる物音を、季武の足音の中へ、そっくり紛れ込ませたのだ。
闇の中に、白い蛇がいた。とぐろを巻き、庭のほうへ首を伸ばして、じっと様子を窺っている。まさか、真後ろに追手が迫っているとは、露ほども思っていない。
忍は、四つん這いのまま、土の上を進んだ。息は、吐かない。吸うのは、蛇が身じろぎした、その音に紛れて。一寸、また一寸。
蛇の尾が、ぴくりと動いた。
忍は、凍りついた。三つ数えるあいだ、動かなかった。やがて蛇は、また庭のほうへ首を戻す。
気づかれてはいない。ただの、癖だ。
その、刹那だった。
忍の懐で、緋が、ぴくりと身を起こした。獲物を前にした獣のように、羽をそばだてて。緋は、忍が“戦っている”のを感じ取ると、いつもこうだ。加勢したくて、うずうずして、今にも懐から飛び出そうとする。緋の小さな体から、ぽっと、熱が漏れかけた。
「(――だめだ、緋。動くな)」
忍は、渾身の念を込めて、それを押しとどめた。ここで緋が一片でも炎を漏らせば、庭中の陰陽師が、その気配を嗅ぎつける。せっかく消えているのに、火の粉ひとつで、すべてが台無しになる。翠が、緋の逸る羽を、自分の羽でそっと押さえてくれた。緋は、不服そうに、それでも、身を縮めた。
忍は、ふう、と細く息を逃がし、あらためて、白蛇へと意識を戻した。
忍は、そっと、両手を伸ばした。
そして、ぱっと、白蛇を掴み上げた。
「捕まえた」
忍が、縁の下から姿を現す。手の中で、白蛇がびちびちと身をよじっていた。
庭に、しん、と沈黙が落ちた。
香は、まだ半分ほど残っていた。
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




