第二話 六合の門 01
夜になれば、鬼が出る。
そう信じられていた時代の、話です。
平安京。都でいちばん広い朱雀大路でも、夜になると誰も歩きません。歩けば、何かに遭うから。
それは物の怪か鬼か、それとも……。
この物語の主人公は、その大路を、二十年、歩きました。
誰にも、見つからずに。
派手な術も出ますが、この話の芯にあるのは、もっと別なもの。
――どうか、最後まで。
この小説は実在の人物・事件をモチーフにしたフィクションです。
この作品はカクヨムでも同時投稿しております。
一 晴明の屋敷
安倍晴明の屋敷は、都の東、土御門大路に面してあった。
外から見れば、なんの変哲もない、少し古びた貴族の邸宅である。だが、一歩門をくぐると、空気が変わった。忍にはそれがはっきりとわかった。肌にまとわりつく、密度の濃い、しんと張りつめた気配。まるで、屋敷そのものが大きな生き物の腹の中で、息を潜めているようだった。
あの夜――辻の付喪神から救われた夜から、三日が過ぎていた。晴明は、路地裏の忍を、こともなげに拾い上げた。「行くあてもないのだろう」と。それだけ言って、忍を屋敷へ連れ帰り、湯を使わせ、飯を食わせ、そして今日、こう告げたのだ。
「試験を受けてもらう。受かれば、ここに置いてやる」
置いてやる、と晴明は言った。行くあてのない忍にとって、それは、喉から手が出るほどありがたい話のはずだった。屋根があり、飯があり、凍える夜がない。それだけで、路地裏の暮らしからは、天と地ほどの隔たりがある。
だが、忍の胸の内は、素直に浮き立ってはいなかった。恵まれた場所には、必ず、それ相応の目がある。見られ、測られ、値踏みされる。路地裏で、透明でいることだけを頼りに生きてきた忍にとって、“見られる”ことは、なにより落ち着かないことだった。
試験。なんの試験なのか、晴明は詳しく語らなかった。ただ、忍は今、真新しい狩衣に袖を通し――もっとも、丈が合わずぶかぶかだったが――屋敷の奥の、広い庭に立たされている。
庭は、よく手入れされていた。白砂が敷かれ、松と、小さな築山と、澄んだ池がある。だが、その静けさは、どこか作りものめいていた。池の水面は、風もないのにかすかに波打ち、松の影は、日の傾きとずれて伸びている。理が、わずかに歪んでいるのだ。ここでは、当たり前のことが、当たり前でない。陰陽師の屋敷とは、そういう場所らしかった。
三日のあいだに、忍が学んだことは、ほかにもあった。この屋敷には、目に見えぬ“使い”がそこかしこにいる。廊を歩けば、足音のない何かが先回りして戸を開け、膳を下げれば、いつの間にか器が片づいている。式神、というものらしい。晴明は、そうした人ならぬ手足を、幾つも従えているのだった。忍の懐の緋と翠が、時おり落ち着かなく鳴くのは、そうした同類の気配を、そこかしこに感じ取っているせいもあった。
忍の懐では、緋と翠が、落ち着かなげにもぞもぞと動いていた。緋は好奇心で羽を膨らませ、翠は警戒するように首をすくめている。二羽とも、この屋敷の張りつめた気配を感じ取っているのだ。
「(緋、翠。絶対に、出てくるなよ)」
忍は、懐に向かって、声には出さずに念じた。
この三日で、忍は骨身に沁みて理解していた。ここは、化け物の巣ではない。人の――しかも、とびきり上等な陰陽師たちの巣だ。そして、上等な陰陽師ほど、他人の隠しごとを見抜く。緋と翠の正体――二羽の孔雀が、ただの鳥ではないことが知れれば、どうなるか。
わからない。だが、いいことにはならない。それだけは、路地裏で培った勘が告げていた。目立てば、狩られる。大事なものは、隠せ。忍にとって、それは呼吸と同じくらい当たり前の掟だった。
だから、忍は決めていた。この試験、何があっても、緋と翠は使わない。使えるのは、隠形だけ。それで受かるなら受かる。落ちるなら、また路地裏に戻るだけだ。
* * *
二 六合の者たち
庭には、先客がいた。
四人の男女が、思い思いの姿で忍を待っていた。誰もが、ただならぬ気配をまとっている。近づいただけで、肌がぴりぴりと粟立つほどの。
一人は、巌のような大男。丈は忍の倍ほどもあろうか。腕を組んで仁王立ちし、値踏みするように忍を見下ろしている。その隣で、がはは、と豪快に笑っているのが、赤ら顔の、これもまた大柄な男。人懐こい笑みだが、その足元の地面には、うっすらと焦げたような跡がついていた。踏みしめるだけで、地を焼くほどの力が漏れているのだ。三人目は、糸のように細い目をした、いつ笑っているのかわからない優男。四人目は、腰に幾本もの札を提げた、神経質そうな若者で、忍を見るなり、あからさまに眉をひそめた。
そして、その四人とは少し離れて――簀子の端に、もう一人。忍と、そう歳の変わらない少女が、ぽつんと腰かけていた。伏し目がちで、どこか物憂げな表情。膝の上で、細い指を組んだり解いたりしている。整った顔立ちだが、その目の下には、うっすらと隈があった。まるで、幾晩も、よく眠れていないかのように。
晴明が、簀子の上に姿を現した。悪びれない、いつもの調子で。
「紹介しよう。私が預かる――『六合』だ」
「りくごう」
「十二天将の一柱の名だ。隠すもの、調停するもの」
「何を、するところなんですか」
「表に出せぬものを、始末する」
晴明は、それだけ言った。
忍は、それ以上、訊かなかった。訊けば、後戻りできなくなる気がしたからだ。
晴明は、四人を順に指し示した。
「あの熊のようなのが、綱。斬れんものが、ない」
「隣の赤ら顔が、金時。踏めば、地が燃える」
「細目が季武。こいつに追われて逃げ切った者は、いない」
「札好きが貞光。都で二番目に、符が上手い」
貞光が、露骨に顔をしかめた。一番目が誰なのか、この場の全員が知っていたからだ。
「この四人が、六合の古株だ。そして」
晴明の指が、少女で止まった。
「弓削早苗(ゆげ の さなえ)。夢を視る娘だ。お前と同じ、新入りだよ」
早苗と呼ばれた少女は、のろのろと顔を上げ、忍を見た。その瞳が、忍を捉えた瞬間――ぴくり、と、彼女の肩が震えた。まるで、見てはいけないものを見てしまったかのように。忍は、内心ひやりとした。
この娘。何かを、視ている。
忍は、そっと目を伏せ、懐の重みを意識した。
“隠すもの、調停するもの”を司る、六合。皮肉なものだ、と忍は思った。人には言えぬものを隠して生きてきた自分が、隠すことを名に負う部隊へ、迷い込もうとしている。だが、隠す者の集まりだからこそ――ここでなら、自分の隠しごとも、少しは紛れてくれるかもしれない。そんな、かすかな期待も、心の隅にはあった。もっとも、隠す者の集まりとは、裏を返せば、隠しごとを見破ることに長けた者の集まりでもあるのだが。
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




