第一話 隠形の子 03
夜になれば、鬼が出る。
そう信じられていた時代の、話です。
平安京。都でいちばん広い朱雀大路でも、夜になると誰も歩きません。歩けば、何かに遭うから。
それは物の怪か鬼か、それとも……。
この物語の主人公は、その大路を、二十年、歩きました。
誰にも、見つからずに。
派手な術も出ますが、この話の芯にあるのは、もっと別なもの。
――どうか、最後まで。
この小説は実在の人物・事件をモチーフにしたフィクションです。
この作品はカクヨムでも同時投稿しております。
三 ―― 辻に、闇が湧く
異変が起きたのは、月のない夜だった。
その夜、忍はいつものように塀の陰で眠ろうとしていた。懐の雛が、いつになく落ち着かない。ちい、ちい、と細く鳴いて、羽をばたつかせ、忍の胸を小さな嘴でつつく。何かを、しきりに訴えるように。
「どうした、おまえ。眠れないのか」
忍が身を起こしたそのとき、路地の奥――辻のほうから、ぞわり、と冷たい風が流れてきた。
風には、匂いがあった。饐えた、甘い、腐臭のような。嗅いだだけで、腹の底が冷たくなるような、そんな匂いだ。
そして、闇が、動いた。
辻の真ん中の空間が、ぐにゃりと歪んだ。まるで水面に墨を一滴落としたように、闇が滲み、広がり、やがて、ひとつの形をとった。
人の背丈の、三倍はあろうか。無数の古びた器物――割れた壺、錆びた鍋、朽ちた琵琶、片方だけの沓――それらが、どろりとした闇に絡めとられて、ひとつの巨大な塊になっている。塊の表面には、いくつもの目玉が浮かび、ぎょろぎょろと蠢いていた。
付喪神。
百年の時を経た器物に、魂が宿り、化けたもの。それも、一つや二つではない。捨てられた器物たちの怨念が寄り集まり、闇に呑まれて、一体の巨大な化け物と化していた。
その、無数の目玉のひとつが、路地の陰にいる忍を捉えた。
ぎょろり、と。
忍は、とっさに念じた。消えろ、と。いつものように、認識から、こぼれ落ちろ、と。
だが。
化け物の目玉は、忍から逸れなかった。それどころか、いくつもの目玉が、いっせいに忍を向いた。ずるり、ずるりと、闇の塊が、路地のほうへ這い寄ってくる。
「なんで……見えてるんだ……!?」
目玉が、増えた。二つ、四つ、十。塊じゅうの目という目が、次々と忍のほうへ向き直っていく。ひとつも、逸れない。まるで、忍が煌々と灯りを掲げて立っているかのように。
忍は、もう一度、強く念じた。もっと深く。もっと薄く。骨まで消えろ、と。
ずるり、と闇の塊が、一歩、近づいた。
忍は、駆けた。路地を、転がるように逃げた。狭い路地を右へ、左へ。だが、化け物の目玉は、闇の中でもぎらぎらと忍を追い続けた。物陰に飛び込んでも、木箱の裏にうずくまっても、無数の目が、まるで灯りに集る虫のように、忍の居場所を正確に捉えてくる。
消えられない。逃げても、逃げても、見つかる。
これまで、忍の隠形は、どんな相手からも彼を守ってくれた。人からも、獣からも。だが、この夜、初めて、それが通じない相手に出くわしたのだ。人ならぬもの――理を外れた怪異の前では、彼の唯一の力は、ただの無力だった。
路地を抜けた先は、行き止まりだった。またしても、塀。背後には、闇。逃げ場はどこにもない。
塊から、闇の触手が伸びた。忍の足首を、ぬめる冷たさが絡めとる。ずるり、と引き倒され、彼の小さな体が、化け物のほうへ引きずられていく。無数の目玉が、涎のような闇を垂らして、彼を待ち構えている。
――ああ、ここで、終わるのか。
忍の頭に、妙に醒めた思いがよぎった。誰にも知られず、名も呼ばれず、路地裏で消えていく。それはきっと、自分にふさわしい終わり方なのだろう。母のように、友のように、自分もただ、いないことになるのだ。
彼は、ぎゅっと懐を押さえた。せめて、この子だけは。この、緋と翠の小さな友だけは、巻き込みたくない。
だが。
その懐から、光が、漏れた。
緋と、翠の、二色の光。
忍の懐から飛び出した雛が、闇に向かって、ちいさく、けれど凛と、鳴いた。その一声で、伸びてきた闇の触手が、びくりと怯んだ。緋の羽から散った小さな火の粉が、忍の足を絡めていた触手を焼き切り、翠の羽から零れた水の膜が、彼の体をふわりと押し戻す。
雛は、まだ雛だ。神獣にも、人型にも、ほど遠い。それでも、その小さな体から漏れた力の欠片は、たしかに、怪異を怯ませた。
忍は、目を見開いた。この子は、ただの鳥じゃない。
だが――漏れ出た光は、あまりに小さく、あまりに短かった。雛はすぐに力を使い果たし、ぐったりと地に落ちた。闇の塊は、一瞬の怯みから立ち直り、ふたたび、忍と、力尽きた雛の両方へと、いっせいに触手を伸ばした。
「――やめろッ!」
忍は、力尽きた雛を庇って、その小さな体に覆いかぶさった。目を、固く閉じる。
せめて、この子だけは。
迫る、闇。
その、刹那――
* * *
四 ―― 「何を、隠している?」
辻に、涼やかな声が、響いた。
「――ずいぶんと、賑やかな夜だ」
声とともに、ひとひらの紙が、宙を舞った。
白い、細長い紙。呪符である。それが、ふわりと闇の塊の眼前で翻った、次の瞬間。
辻の空間が、四角く、断ち切られた。
闇の塊が、触手ごと、綺麗な立方体に切り取られ――そのまま、宙に浮いた薄青い箱の中に、封じ込められた。あれほど猛っていた怪異が、身動きひとつ取れず、箱の中でもがいている。
忍は、恐る恐る、目を開けた。
辻の入り口に、一人の男が立っていた。
白い狩衣。年の頃は読めない。若いようにも、ひどく老いているようにも見える、不思議な男だった。切れ長の目に、涼やかな、けれど底の知れない光を湛えている。片手に呪符を挟み、まるで夕涼みにでも出てきたかのような、飄々とした立ち姿で。
その男の背後には、うっすらと、獣の影が揺らいでいた。犬とも、狐とも、あるいはもっと大きな何かとも見える、半透明の獣。式神だ。それも、忍が見たこともないほど、色濃く、大きな。
男は、封じた怪異には目もくれず、まっすぐに忍を見た。正しくは――忍の腕の中で、ぐったりと横たわる、緋と翠の雛を見た。
その目が、す、と細くなった。
「ほう」
男は、感嘆とも、驚きともつかぬ、低い声を漏らした。
「これは、驚いた。……こんな路地裏に、こんなものが転がっていたとは」
忍は、雛を抱えたまま、後ずさった。塀に背が当たる。逃げ場はない。だが、この男から漂う気配は、さっきの化け物とは、また別種の、底知れなさだった。
消えなければ。忍は、反射的に念じた。この男の目からも、消えて――
「無駄だよ」
男は、こともなげに言った。
「私の目の前で、隠形を使おうとしても無駄だ。……ああ、そうか。お前、その術で、今までずっと生きてきたのだな。人の目から、掟から、飢えた獣から、隠れて。健気なことだ」
忍は、息を呑んだ。この男は、忍が何をしようとしたか、見透かしている。それどころか、忍の術の名すら――「隠形」などという言葉すら、忍自身知らなかったその名を、こともなげに口にした。
「……あんた、誰だ」
絞り出すように、忍は問うた。
男は、ふ、と笑った。それは、獲物を見つけた狩人の笑みにも、迷子を見つけた親の笑みにも見える、なんとも形容しがたい笑みだった。
「安倍晴明。……人は、私をそう呼ぶ」
その名を、幼い忍はまだ知らない。
だが、いずれ嫌というほど知ることになる。この飄々とした男が、都でただ一人、帝より物の怪より恐れられ、頼りにされる、当代随一の陰陽師であることを。そして――この夜が、名もなき路地裏の子供が、「刀岐忍」という一人の陰陽師へと変わっていく、その始まりの夜であったことを。
晴明は、封じた怪異を一瞥すると、指を鳴らして、それを塵のように霧散させた。あれほどの化け物を、まるで塵を払うように。忍は、呆然とその光景を見ていた。自分があれほど恐れ、逃げ惑い、あわや呑まれかけた化け物が、この男の指先ひとつで、跡形もなく消えてしまった。力とは、こういうものなのか。守るための、あるいは退けるための力とは。
それから、晴明はゆっくりと、忍の前に膝をついた。目の高さを、幼い忍に合わせて。
忍は、身構えた。大人が、こんなふうに目線を合わせてくるのを、彼は知らなかった。路地裏の大人は、子供を見下ろすか、蹴りつけるか、そのどちらかだ。こうして、まっすぐに目を見てくる大人など、一人もいなかった。
「なあ、坊主。ひとつ、聞かせてくれ」
晴明の目が、忍の腕の中の雛を、そして忍自身を、まっすぐに射抜いた。その声は、静かで、けれど有無を言わせぬ響きを持っていた。
「お前――その懐に、何を隠している?」
忍は、答えられなかった。
自分でも、わからなかったからだ。この緋と翠の雛が、何なのか。自分の消える力が、何なのか。自分が、何者なのか。
ただ、腕の中の雛が、まるで晴明に応えるように、ちい、と小さく鳴いた。緋の羽と、翠の羽を、かすかに震わせて。
その夜。
名もなき子供の、隠された物語が、静かに動きはじめた。
――第一話 了――
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




