第一話 隠形の子 02
夜になれば、鬼が出る。
そう信じられていた時代の、話です。
平安京。都でいちばん広い朱雀大路でも、夜になると誰も歩きません。歩けば、何かに遭うから。
それは物の怪か鬼か、それとも……。
この物語の主人公は、その大路を、二十年、歩きました。
誰にも、見つからずに。
派手な術も出ますが、この話の芯にあるのは、もっと別なもの。
――どうか、最後まで。
この小説は実在の人物・事件をモチーフにしたフィクションです。
この作品はカクヨムでも同時投稿しております。
一 ―― 都の裏、名もなき子
平安の都は、光の都であると同時に、影の都でもある。
朱雀大路の華やかさから一歩裏へ入れば、そこには別の都があった。崩れた築地塀のあいだにうずくまる物乞い。溝を流れる汚水。病でうち捨てられ、筵一枚をかけられただけの骸。飢えと、寒さと、諦めの匂いが、路地の隅々にまで染みついていた。
その路地裏の一角に、その子供はいた。
歳の頃は、七つか八つ。痩せて、髪は伸び放題で、着ているものは大人の破れ着物を紐で括っただけの襤褸である。名を、忍といった。もっとも、その名を呼ぶ者は、もうこの世に一人も残っていなかったが。
忍には、親の記憶がない。
物心ついたときには、この路地裏にいた。誰に育てられたわけでもなく、ただ、気づけばここで生きていた。腹が減れば、市の隅から零れた芋の切れ端を拾い、井戸の水を飲み、夜は崩れた塀の陰で膝を抱えて眠る。そういう暮らしだった。
だが、彼は不思議と、飢え死にも、凍え死にも、しなかった。
同じ路地裏の子供たちが、冬を越せずに次々と姿を消していくなかで、忍だけは生き延び続けた。理由は、彼自身にもわからなかった。ただ――彼には、ひとつだけ、他の子と違うところがあった。
消えられるのだ。
「おい、そこのガキ! 待て!」
その日も、忍は追われていた。市場の露店から、干し魚をひと掴み盗んだのが見つかったのだ。がなり立てる店主と、その手下らしき下男が二人、血相を変えて追ってくる。忍の小さな足では、大人の脚から逃げ切れるはずもない。路地は行き止まりだった。背後は塀、逃げ場はない。
捕まれば、腕の一本は折られるだろう。都の掟は、飢えた子供にやさしくはない。
忍は、塀に背をつけ、ぎゅっと目を閉じた。そして――念じた。
消えたい。ここに、いないことになりたい。誰の目にも、映らないでいたい。
次の瞬間。
彼の輪郭が、す、と薄れた。
「……あれ?」
路地に駆け込んできた下男が、間の抜けた声を上げた。行き止まりの路地には、誰もいない。塀の陰にも、積まれた木箱の裏にも、子供の姿はどこにもない。たしかにこの奥へ逃げ込んだはずなのに。
「どこ行きやがった、あのガキ……」
「上から飛び降りたんじゃねえのか」
「馬鹿言え、こんな塀を子供が登れるか」
二人は首をひねりながら、しばらく路地をうろついて、やがて舌打ちして去っていった。
その、すぐ足元。
積まれた木箱の、わずかな隙間に、忍はいた。膝を抱え、息を殺して。彼らの目には、まるでそこに何もないかのように――塀の染み、地面の凹凸と同じように、忍の姿は認識から抜け落ちていた。
これが、忍の“力”だった。
強く念じれば、彼は人の目から消える。正確には、そこにいるのに、いないものとして扱われる。誰の意識にも、ひっかからなくなる。
なぜそんなことができるのか、忍は知らない。ただ、物心ついたときから、そうだった。そしてこの力のおかげで、彼は幾度となく、大人の折檻から、掟の罰から、飢えた獣のような同じ境遇の子供らから、身を隠して生き延びてきたのだった。
だが、この力には、代償があった。
消えているあいだ、忍は、ひどく心細くなる。誰の目にも映らないということは、そこに“いない”ということだ。人の意識から抜け落ちた自分は、まるで生きながら幽霊になったようで、消えるたびに、体の芯が少しずつ冷たく、薄くなっていく気がした。長く消えていると、自分が本当にここにいるのかどうか、忍自身にもわからなくなる。だから彼は、危ういときにだけ、ほんの短いあいだだけ、消える。それが、彼が幼いなりに身につけた掟だった。
それに、消えても、腹は膨れない。寒さも凌げない。この力は、逃げることはできても、何かを得ることはできなかった。奪うことも、守ることも、できない。ただ、いなくなること。それだけの力だった。
――守るための力が、ほしかった。
同じ路地裏で、痩せ細った赤子を抱いた母親が、冬の朝、冷たくなっているのを見たとき。仲良くしていた年上の子が、掟を破って腕を折られ、そのまま高熱を出して姿を消したとき。忍はいつも、木箱の隙間で、息を殺して、消えて、見ていることしかできなかった。消えることは、助けないこととよく似ていた。
自分は、逃げてばかりだ。
消えて、隠れて、見ないふりをして、生き延びているだけだ。
その後ろめたさは、幼い忍の胸の底に、小さな棘のように刺さっていた。いつか――誰かを、守れる者になりたい。逃げるためではなく、守るために使える、そんな力が。それは、叶うはずもない願いだと、わかってはいたけれど。
* * *
二 ―― 緋と翠、小さな友
忍には、たった一人の――いや、正しくは、二羽の連れがいた。
孔雀の、雛である。二羽とも。
といっても、色が妙だった。一羽は、燃えるような緋。もう一羽は、しんと冷たい翠。そんな、絵にも描けぬ色の羽を持つ、掌にのるほど小さな鳥が、二羽。いつからそばにいたのか、それも忍は覚えていない。気づけば、二羽とも彼の懐に潜り込んで、ちいちい、と競うように鳴いていた。
都の路地裏に、孔雀などいるはずがない。それは南の国の、高貴な鳥だ。ましてや、こんな緋や翠の羽の孔雀など、誰も見たことがない。
だが、幼い忍には、そんな道理はわからなかった。ただ、自分と同じように行き場のない小さな生き物が、二羽そろって自分を頼って懐にいる。それが、たまらなく嬉しかった。
「おまえたちも、腹が減ってるのか」
盗んだ干し魚を小さくちぎって差し出すと、二羽は嬉しそうに啄んだ。緋のほうを口へ運ぶと、その羽がぽっとあたたかくなる。翠のほうには、井戸の水を掌に掬ってやると、嬉しそうに水浴びをした。冷える夜には、二羽まとめて懐に抱いて眠った。不思議と、そうしていると、凍える夜も寒くなかった。緋からは仄かなぬくもりが、翠からはやわらかな涼が、忍を包んでくれるのだった。
忍は、この二羽に、たいそうな名はつけなかった。名をつけて、失うのが怖かったからだ。路地裏では、名を呼んだものから消えていく。母も、友も――いや、母の顔すら、彼は覚えていないけれど。ともかく、大事なものに、仰々しい名をつけてはいけない。それが、忍が幼いなりに学んだ、この世の掟だった。
だから彼は、ただ羽の色のままに――緋いほうを「緋」、翠いほうを「翠」と、そう呼んだ。名というより、呼び声のような、ささやかな二文字。それでも、二羽はその呼び声に、たしかに応えた。
それでも、この雛と過ごす時間は、忍にとって、灰色の暮らしのなかの、唯一の色だった。
昼は、市の隅に隠れて過ごす。人の目を盗んで、こぼれた食べ物を拾う。緋と翠は、忍の懐からちょこんと顔を出して、行き交う人々を、もの珍しそうに眺めていた。緋は、賑やかなものが好きらしく、市の喧騒に嬉しそうに羽を震わせ、我先にと顔を出したがる。翠は、静かなものが好きらしく、水を汲む音や、風の音に、うっとりと目を細める。姉と弟のように、あるいは火と水のように、二羽の気性はまるで正反対だった。
夜は、塀の陰で、身を寄せ合って眠る。忍が寒さに震えていると、緋がそっとぬくもりを分けてくれた。忍が悪い夢を見てうなされると、翠がやわらかな涼で、額をなでてくれた。そうして目を覚ますと、いつも二羽は、まんまるな目で、じっと忍を見上げているのだった。まるで、心配そうに。まるで、守るように。
「……おまえたちは、いいな」
あるとき、忍は二羽に、ぽつりと言った。
「小さくても、あったかい。おれを、あっためてくれる。……おれも、おまえたちみたいに、誰かをあっためたり、守ったりできたら、いいのにな」
緋と翠は、ちい、と声をそろえて鳴いて、忍の左右の頬に、そっと羽を擦り寄せた。まるで、その願いを、覚えておくとでも言うように。
このとき、忍は知らなかった。この二羽の小さな友が、いつか都をまるごと焼き、あるいは守るほどの力を秘めた、神格の式神であることを。緋は苛烈な火の戦姫へ、翠は寡黙な水の守り手へと、人の姿すら取るのだということを。そして、忍自身のなかに眠る力が、その二羽を、いつか天将の姿にまで育て上げるのだということを。
まだ、何も始まっていない。
けれど、始まりの種は、たしかに、この路地裏の、小さな身の内に、蒔かれていた。
――今にして思えば。
あの緋と翠こそが、十二天将と呼ばれる神格の式神の、二柱であった。本来ならば、一流の陰陽師が生涯をかけてようやく一体、従えられるかどうかという領域の、途方もない存在。それが二体、なぜ名もなき孤児の懐で、色違いの雛の姿をして眠っていたのか。……そして、この二羽が本当の名を忍に明かすまでには、まだ、長い歳月と、多くの喪失が必要だった。
その意味を、忍が知るのは、まだずっと先のことだ。
このときの彼は、ただ、緋と翠の小さな友を、世界でいちばん大切なものとして、懐に抱いていた。それだけだった。
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




