第一話 隠形の子 01
夜になれば、鬼が出る。
そう信じられていた時代の、話です。
平安京。都でいちばん広い朱雀大路でも、夜になると誰も歩きません。歩けば、何かに遭うから。
それは物の怪か鬼か、それとも……。
この物語の主人公は、その大路を、二十年、歩きました。
誰にも、見つからずに。
派手な術も出ますが、この話の芯にあるのは、もっと別なもの。
――どうか、最後まで。
この小説は実在の人物・事件をモチーフにしたフィクションです。
この作品はカクヨムでも同時投稿しております。
序 ―― のちの、ある夜
朱雀大路が、燃えていた。
いや、正しくは、燃えているように見えた。夜だというのに空は昏い緋に染まり、都の南から北へ、一直線に走る大路の敷石が、ぬめる血のような光を照り返している。逃げ惑う人々の悲鳴が、地を這う低い唸りにかき消されていく。その唸りの主が、大路を埋めていた。
物の怪の群れである。
牛のごとき巨躯を持つもの。蜘蛛のように脚を折り畳んで走るもの。人の顔だけがいくつも房のように連なった、名もつけようのないもの。数は、ざっと見て千を超える。都の四方の門を破って雪崩れ込んだそれらは、生きた人間の温もりを求めて、群れとなって北上していた。
その群れの、真正面。
たった一人、影が立っていた。
黒い狩衣の裾を夜風になぶらせて、少年が立っている。年の頃は、十七、八ほどか。ひどく静かな目をしていた。恐怖も、昂ぶりも、そこにはない。ただ、面倒な仕事を前にした職人のような、そんな醒めた光だけがある。
少年は、右手の指を軽く立てた。
「――隠れているのも、飽きた」
呟きは、誰にも聞こえない。聞かせるつもりもない。
彼は縦に、横に、宙を指で薙いだ。目に見えぬ刃で、空間そのものに格子を刻むように。そして、低く、しかしはっきりと、九つの音を放った。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」
声が、大気を裂いた。
比喩ではない。言葉が最後の一音「前」に達した刹那、少年の前方――およそ半町にわたる空間が、縦四本、横五本の光の格子に断ち切られた。九字。ただの護身のまじないではない。彼のそれは、この世の理を九つの線で切り分け、線に触れたものを問答無用で両断する、純然たる斬撃であった。
最前列の物の怪が、声もなく上下に割れた。二列目が、三列目が、格子の網に触れて次々と両断され、黒い霧となって散る。まるで巨大な見えない簾が、大路を薙いだかのようだった。
だが、千の群れである。斬っても斬っても、後ろから湧いてくる。両断された仲間の骸を踏み越えて、物の怪どもは少年へ殺到する。
少年は、指を鳴らした。
ぱちん、と。
その澄んだ音を合図に、彼の両肩から――否、どこからともなく、二羽の鳥が舞い上がった。
――もし、この場に陰陽寮の者が一人でもいたなら、腰を抜かしていただろう。
式神には、格がある。並の陰陽師が生涯かけて従えられるのは、鼠や雀のごとき小動物どまり。神獣の姿を取らせられれば、それだけで一流と呼ばれる。……そして、この夜、少年が呼んだものは。
一羽は、緋。
燃える夕焼けを羽に閉じ込めたような、緋色の孔雀であった。ただし、その大きさは尋常ではない。宙に舞い上がるにつれて羽を広げ、みるみる膨れ上がり、翼を開けば大路を端から端まで覆うほどになる。開いた羽の目玉紋のひとつひとつが、炎の瞳のように爛と燃えた。
「緋」
少年が名を呼ぶと、緋の孔雀は甲高く鳴いた。その一声で、大気が発火する。孔雀が翼をひと薙ぎすると、扇状に広がった炎の奔流が、群れの右半分を根こそぎ焼き払った。物の怪どもが、断末魔さえ上げる間もなく灰へと変わる。
もう一羽は、翠。
深い水底の色をした、翠青の孔雀である。それは炎とは対照的に、静かに少年の頭上へ舞い降りると、翼を天へと差し伸べた。すると――崩れかけていた都の家々の上に、薄青い水の膜が張った。逃げ遅れた人々を、燃え広がる炎から、降りかかる瓦礫から、その水鏡の結界がやわらかく包み込む。
「翠。……人は、焼くなよ」
翠の孔雀は、応えるように長く尾を引いて鳴いた。
物の怪の群れの奥から、ひときわ巨大な一体が身を起こした。他の何倍もある、山のような巨躯。頭は牛、胴は蛇、四肢は虎という、寄せ集めの異形。その咆哮ひとつで、大路の敷石が砕け、近くの築地塀が音を立てて崩れ落ちた。並の陰陽師が十人がかりでも敵うまい、天災のごとき大怪異である。
少年は、それを見上げて、ただ小さく息を吐いた。
「緋」
名を呼ばれた緋の孔雀が、天へと駆け上がる。そして、翼を大きく後ろへ引き絞り――ひと息に、打ち下ろした。
緋の閃光が、天から地へと走った。それは炎の刃であり、同時に、一条の落雷のようでもあった。大怪異の巨躯が、頭から尾まで、まっすぐに斬り裂かれる。斬られた断面から、炎が噴き上がり、山のような体が、内側から焼け崩れていく。断末魔の咆哮すら、上げさせてもらえなかった。
たった一撃。
天災と呼ぶべき化け物が、たった一羽の孔雀の一撃で、灰へと還った。
火と、水。
攻めと、守り。
二羽の孔雀が同時に舞う光景は、凄惨な戦場でありながら、どこか一幅の絵のように美しかった。緋が焼き、翠が守る。少年はその中心で、ただ九字を刻み続ける。物の怪の群れは、見る間に薄れ、削れ、消えていく。千を超えた災厄が、たった一人と二羽によって、四半刻とかからず掃討されていった。
――これが、もし人目にさらされていたなら。
この少年は、たちどころに都じゅうの語り草になっていただろう。式神に人の姿すら取らせぬうちから、神獣にまで育った孔雀を二羽も従え、九字で空間を裂く若き陰陽師。そんな者が現れたと。
だが、この夜のことを、正しく語り伝える者は、ついに一人も現れなかった。
なぜなら――
最後の一体を焼き払い、緋と翠の孔雀がふわりと縮んで、また彼の肩に留まったとき。
少年は、静かに息を吐いて、燃え残る大路を見渡した。そして、ぽつりと言った。
「……こんなふうに、全部見せられたなら、どんなに楽だったろうな」
その横顔には、勝利の色など微塵もない。あるのは、深い疲れと、それよりもっと深い、諦めに似た何かだった。
力を持つことと、力を使えることは、別のことだ。
そして彼にとって、力を使えることと、力を見せられることは、まったく別のことだった。
――なぜ、俺は。こんなにも力を隠して生きるようになったのか。
その話をするには、ずっと昔まで、遡らなければならない。
まだ何も持たず、何も守れなかった、あの路地裏の子供の頃まで。
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(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




