ほつれ毛に色香漂う夏の宵
ほつれ毛に色香漂う夏の宵
二〇二六年八月一日の夜、AI小説家のかおるこは、白い木綿のブラウスに紺色のゆったりしたズボンをはき、財布と買い物袋を持ってコンビニへ向かった。東京都には連日、熱中症警戒アラートが出ており、午後八時を過ぎても団地の壁やアスファルトは昼間の熱を抱えていた。玄関を出た途端、エアコンで冷えていた眼鏡が曇り、建物の外に置かれた室外機からは熱い風が吹きつけてきた。
「夜になっても、ちっとも涼しくならないね。東京はどうなっちゃうんだろう」
かおるこは独り言をこぼし、肩に掛けた生成りの布袋で脇腹を扇いだ。冷蔵庫には飲みかけの麦茶と半分に切ったトマトしかなく、明日の朝に食べるヨーグルトも切れていたため、暑くても買い物へ行かないわけにはいかなかった。出かける前に水へ浸してきた夕食の冷やし中華の皿を思い出し、帰ったら忘れずに洗わなければと指を一本立てた。
大通りへ出たところで、ドーンという音が空気を震わせ、続いてバチバチと乾いた音が鳴った。連日のゲリラ雷雨に悩まされていたかおるこは、反射的に空を見上げたが、頭上に黒い雲はなかった。団地と団地の隙間に赤や緑の光がちらりと見え、夜風に火薬の匂いが混じったところで、ようやく花火大会の音だと気づいた。
「雷じゃなかった。花火だったのね」
コンビニの自動ドアが開くと、冷房の風と揚げ物の匂いが一緒に流れてきた。かおるこは曇った眼鏡をブラウスの裾で拭き、麦茶、プレーンヨーグルト、六枚切りの食パンを籠へ入れた。レジ横には焼き鳥とアメリカンドッグが並び、夕食を済ませたはずの腹が急に空いたような気がした。
「焼き鳥、一本だけください」
「ただいま二本買うと、二十円引きになります」
「そう言われると二本欲しくなるから困るのよ。商売が上手ねえ」
「塩とたれを一本ずつにもできますよ」
「それなら負けました。一本ずつください」
若い店員が笑い、かおるこもつられて笑った。温かい焼き鳥と冷たい麦茶を同じ袋へ入れないよう頼むと、店員は小さな袋をもう一枚用意してくれた。かおるこは釣り銭を財布の小銭入れへしまい、買い忘れがないか頭の中で麦茶、ヨーグルト、食パンと三回唱えてから店を出た。
店先には、花火大会から帰ってきたらしい浴衣姿の若い男女が立っていた。女性は淡い水色の浴衣に白い朝顔の模様を散らし、山吹色の帯をきちんと結んでいたが、人混みの中を歩いてきたせいか、うなじには細いほつれ毛が張りついていた。その髪が街灯の光を受けるたびに揺れ、汗ばんだ首元からは、通り過ぎるときに石けんのような甘い香りがした。
「ごめんね。暑かったでしょう。水をもう一本買ってこようか」
「大丈夫。あなたのほうが汗びっしょりじゃない」
「僕はTシャツだから平気だよ。浴衣、苦しくない?」
「少しだけ。でも、着てきてよかった。花火、きれいだったもの」
男性は白いTシャツに薄茶色のズボンをはき、右手に二人分のうちわ、左手にコンビニの袋を持っていた。袋の中にはペットボトルの水、カップ入りのかき氷、焼きそばらしい透明な容器が見え、赤いストローが一本だけ飛び出していた。女性が帯を気にして背中へ手を回すと、男性は何も言わず、二枚重ねたうちわで彼女の首元へゆっくり風を送った。
「下駄、痛くない?」
「少し痛い。駅までゆっくり歩いてもいい?」
「もちろん。途中にベンチがあったら休もう」
「ありがとう。来年も一緒に見たいね」
「来年は、もっと早く場所を取ろう。屋台の焼きそばも売り切れる前に買う」
「今日だって、コンビニで買えたからいいじゃない」
「祭りの焼きそばとコンビニの焼きそばは、ちょっと違うんだよ」
二人はそんな話をしながら、花火の煙が残る夜道を並んで歩き始めた。女性の赤い鼻緒が街灯の下で見え隠れし、男性が持つ二枚のうちわが歩調に合わせて揺れていた。かおるこは焼き鳥の袋を持ち直し、ほつれ毛を揺らす女性と、その歩幅に合わせる男性の後ろ姿をしばらく見送った。
熱中症警戒アラートが何度鳴っても、若い二人は浴衣を着て、人混みの中で花火を眺め、下駄で痛くなった足を気遣いながら来年の約束をしていた。涼しい部屋で動画を見るだけでも花火は楽しめるのに、わざわざ帯を締め、汗をかき、火薬の匂いが残る夜道を歩いている。その少し面倒なことを楽しめる人がいるうちは、日本の夏も捨てたものではないとかおるこは思った。
「日本は、まだまだいけるね」
かおるこがつぶやくと、遠くで最後の花火が鳴り、コンビニの窓ガラスがかすかに震えた。家へ戻ると、エアコンの低い音がする部屋で、冷やし中華の皿が水に浸かったまま待っていた。かおるこは買った物を冷蔵庫へしまい、塩味の焼き鳥を一本かじると、パソコンの前に座って白い画面へ題名を打ち込んだ。
「ほつれ毛に色香漂う夏の宵、と」
うなじに張りついた一本の髪、二枚のうちわ、赤い鼻緒、来年も一緒に見たいという声を忘れないうちに、かおるこは両手をキーボードへ置いた。窓の外では花火が終わり、救急車の音と室外機の唸りが東京の夜に戻っていた。それでも部屋には、先ほど見た水色の浴衣と若い二人の笑い声が残り、かおるこの指はいつもより軽く動き始めた。




