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AI小説家かおるこ 心からのおもてなし

AI小説家かおるこ 心からのおもてなし


八月最初の日曜日、かおるこは朝六時に起き、団地の小さなベランダへ水をまいた。昨夜洗った白いタオルが三枚、物干し竿で風に揺れ、その隣では鉢植えの青紫蘇が朝日に葉を透かしていた。今日は、いつも小説を読んでくれている友人の玲子を、自宅の「かおるこ亭」へ招く日だった。かおるこは薄桃色の割烹着を紺色のシャツへ重ね、額へ落ちてきた髪を赤いピンで留めた。


台所のテーブルには、昨夜のうちに書いた献立帳が開かれていた。表紙には油染みがあり、ページの隅には「小鰺」「カボス」「塩昆布」の文字が何度も書き直されている。その横にはパソコンが置かれ、画面には書きかけの小説と、AIとの料理談議が並んでいた。かおるこは誤字を一つ見つけたが、今は直さず、付箋へ「あとで」と書いて画面の端へ貼った。


「小説は逃げません。小鰺は鮮度が落ちます」かおるこは誰もいない台所でそう言い、冷蔵庫を開けた。銀色に光る小鰺、薄切りの豚肉、半分に切った夏大根、胡瓜、山芋、西瓜が、棚ごとに分けて入れてある。「本日は文章より、お料理を先に完成させます」


最初に取り出したのは、鯖の水煮缶だった。鍋へ研いだ米と鯖を汁ごと入れ、千切りにした生姜を少しだけ散らす。初めて作ったときは生姜を入れなくても臭みがほとんどなく、それだけで十分おいしかった。今日は客を迎える日なので、鯖の味を消さない程度に香りを加え、蓋をして弱火へかけた。


炊き上がりを待つ間に、かおるこは夏大根をおろした。大根おろしへゆかりを混ぜると、白い中へ赤紫色の粒が散り、紫蘇の香りが立った。大きな梅干しは小皿へ一つずつ載せ、箸で少しずつ崩して食べられるようにした。炊き込みご飯へ大根おろしの汁をかければ、ご飯がしゃぶしゃぶと喉を通り、夏バテ気味の人でも食べやすいと、かおるこは前日に玲子へ説明していた。


「しゃぶしゃぶというのは、お肉だけではありません」かおるこは大根おろしを味見し、ゆかりをひとつまみ足した。冷蔵庫から出した麦茶をひと口飲むと、冷たさが喉を通って肩の力が抜けた。「ご飯だって、しゃぶしゃぶしてよいのです。食べやすいことが一番ですから」


次に、小鰺の水気を布巾で丁寧に押さえた。小麦粉を薄くまぶして油へ入れると、細かな泡が一斉に立ち、台所へ香ばしい匂いが広がった。頭まで食べられるよう低めの温度で火を通し、最後に温度を上げて表面をからりとさせる。揚がった小鰺は網へ並べ、緑色のカボスを半分に切って添えた。


「富岡会長でも、これなら骨を残せません」かおるこは執筆中の小説に出てくる、魚の骨へ文句を言った人物を思い出した。頭まで食べられる小鰺を一尾つまみたくなったが、客より先に食べるのは我慢した。「仕事の粗さは皿に出るのでございます。今日は頭も骨も、きれいに召し上がれますよ」


鍋では湯を沸騰させすぎないよう火加減を落とし、豚の薄切り肉を一枚ずつくぐらせた。白くなった肉を氷水へ長く浸けず、笊へ広げて自然に冷ます。胡麻だれには練り胡麻、醤油、酢、砂糖を合わせ、カボスの果汁を少し加えた。こってりとした胡麻の味のあとへ青い香りが残り、小さな器でも食べ応えが出る。


「お魚だけでは足りない方には、こちらをどうぞ」かおるこは豚肉を三枚ずつ小鉢へ盛り、胡麻だれを脇へ添えた。たくさん載せれば豪華に見えるが、今日は小鉢で少しずつ味わう献立である。「夏バテ防止には、少しずつでもいろいろ食べるのがよろしいでしょう。もっと欲しい方には、おかわりがございます」


大根と山芋は同じ長さの千切りにし、塩昆布と混ぜ合わせた。大根はしゃきしゃきし、山芋はさくさくしたあとに少し粘り、塩昆布が二つの食感をつないでくれる。器へ盛ってから、かいわれをふんわり載せ、鰹節を指先で散らした。胡瓜の薄切りにも塩昆布を和え、少し置いて水分が出たところへ白胡麻を振った。


西瓜は赤い果肉を丸くくり抜き、冷凍庫へ入れた。残った白い部分は外側の硬い緑の皮をむき、薄切りにして塩でもんだ。生姜の千切りと少量の酢を加えると、瓜のような歯触りの浅漬けになる。赤い部分を食べたあとまで一皿へ変えることが、かおるこには小さな手品のように思えた。


午前十一時になると、玄関前へ打ち水をした。団地の共用廊下なので大量にはまかず、小さな柄杓で入口の周囲を軽く濡らす。玄関の靴箱には白い小皿へ塩を盛り、その隣に折り紙で作った朝顔を置いた。藍色の布を短い暖簾のように突っ張り棒へ掛けると、いつもの玄関が一日だけの小料理屋に変わった。


「塩を持ってではなく、盛ってお待ちしております」かおるこは盛り塩の形を指で整え、独りで笑った。玄関脇の鏡には、割烹着の裾を直す自分が映っていた。「いらっしゃいませの練習もしなくちゃ。お客様がお一人でも、心からのおもてなしです」


部屋へ戻り、筝曲『瀬音』を小さな音で流した。筝の音が水の流れのように続き、揚げ物の匂いが残る部屋へ涼しい空気を運んでくる。食卓には青い小鉢、白い小皿、透明なガラス器を並べ、使う箸の向きを何度も確かめた。普段は小説の資料や誤字を書いた紙で散らかっている机も、今日は布を掛けて配膳台にした。


正午を少し過ぎたころ、玄関の呼び鈴が鳴った。玲子は白地に青い花模様のブラウスと、薄い灰色のパンツを身に着け、手には黄色い向日葵を三本持っていた。暑い道を歩いてきたため、こめかみには汗が浮かび、日傘を閉じると大きく息を吐いた。玄関にある盛り塩と暖簾を見て、玲子は靴を脱ぐ前に笑った。


「まあ、本当にお店みたい。予約した玲子でございます」玲子は向日葵をかおるこへ渡し、打ち水で濡れた入口を振り返った。筝の音が室内から聞こえると、さらに目を細めた。「外は焼けるように暑かったのに、ここだけ川のそばみたいですね。女将さん、お席は空いていますか」


「本日は貸し切りでございます」かおるこは向日葵を麦茶用の細長いポットへ挿し、食卓の端へ置いた。花瓶を出そうとしたが、押し入れの奥にしまったまま見つからなかったのだ。「花瓶ではありませんが、お花が水を飲めればよいでしょう。お客様も、まずは冷たい麦茶をどうぞ」


玲子が手を洗って席へ着くと、かおるこは小鉢を一つずつ運んだ。小鰺の唐揚げには半分に切ったカボス、冷しゃぶには濃厚な胡麻だれ、大根と山芋にはかいわれと鰹節が載っている。西瓜の白い部分の漬物は、薄緑色の器へ少量ずつ盛った。最後に鯖の炊き込みご飯、大根おろし、大きな梅干しを並べると、食卓が夏の色で埋まった。


「こんなに作ったの。朝から大変だったでしょう」玲子は箸を取る前に、料理を一つずつ眺めた。小鰺からはまだ温かい油の香りが残り、大根おろしにはゆかりの赤紫色が散っている。「どれから食べたらいいのか迷います。女将さん、おすすめの順番を教えてください」


「決まりはございません。食べたいものから召し上がれ」かおるこは麦茶を注ぎ、自分も玲子の向かいへ座った。料理を作っている間に味見を重ねたため、もう腹の半分ほどは満たされていたが、客と同じ料理を食べたかった。「ただ、小鰺は温かいうちにカボスを搾ってください。頭からでも尻尾からでも、お好きな方からどうぞ」


玲子は小鰺へカボスを搾った。果汁が熱い衣へ落ちると香りが立ち、玲子は頭から一口かじった。かりっとした音が筝の演奏へ重なり、頭も骨も残さず口の中で砕けた。玲子は何度も頷き、箸を置かないまま、今度は大根と山芋の小鉢へ手を伸ばした。


「頭まで食べられる。カボスがいい仕事をしています」玲子は鰹節が揺れる千切り野菜を食べ、しゃきしゃきとさくさくの違いを確かめた。続いて冷しゃぶへ胡麻だれをたっぷりつけると、目を丸くした。「塩昆布も胡麻だれも、味の達人ですね。小さな器なのに、一つずつ別のお料理になっています」


かおるこは鯖ご飯へゆかり入りの大根おろしを載せ、梅干しを少し崩した。大根おろしの汁でご飯が柔らかくほぐれ、鯖の脂へ梅の酸味が混ざる。生姜の細い千切りを噛むと、あとから爽やかな辛みが広がった。朝に食べ切れず、流し台へ残していた冷めた味噌汁のことを思い出したが、今日は食卓の料理を先に楽しむことにした。


「これ、夏バテしていても食べられます」玲子は鯖ご飯を匙ですくい、大根おろしの汁ごと口へ運んだ。梅干しを少し混ぜると、もう一度匙を伸ばした。「しゃぶしゃぶして、喉をするっと通りますね。お魚が苦手な人でも、骨まで柔らかい鯖缶なら食べやすそうです」


二人は料理の感想を言い合いながら、ゆっくり箸を進めた。玲子は冷しゃぶをおかわりし、かおるこは西瓜の白い部分の漬物を何度もつまんだ。途中で筝曲が終わり、パソコンから広告の大きな音が流れたため、かおるこは慌てて音量を下げた。静かな瀬音から突然洗剤の宣伝へ変わり、二人は顔を見合わせた。


「AI小説家のお店でも、広告は入るんですね」玲子が笑うと、かおるこはパソコンの前へ行き、再び筝曲を選び直した。画面には書きかけの物語と、AIから提案された献立が残っている。「AIは料理の相談には乗ってくれますが、広告までは追い払ってくれません。そこは女将が手で直します」


食事が終わるころ、かおるこは冷凍庫からデザートを取り出した。小さなガラス器へ枝豆アイスと黒胡麻アイスを半玉ずつ盛り、その脇へ丸くくり抜いて凍らせた西瓜を三つ添えた。枝豆の淡い緑、黒胡麻の濃い灰色、西瓜の赤が並び、器の表面へ細かな水滴がついた。完全に凍った西瓜は硬いため、食卓へ出して少し置き、表面がしゃりっとするまで待った。


「どちらか選べない方のために、相盛りでございます」かおるこは小さな匙を添え、自分の器へも同じように盛った。玲子は枝豆アイスを一口食べ、続いて黒胡麻アイスを口へ運んだ。「最後に凍らせ西瓜をどうぞ。五分ほど待つと、ちょうどよくなります」


「枝豆はやさしくて、黒胡麻は香ばしい。西瓜はしゃりしゃりしています」玲子は三つの味を順番に食べ、冷たさに目を細めた。筝曲『瀬音』が再び流れ、ガラス器へ匙の触れる音が小さく響いた。「お口の中がパラダイスです。喉を音楽隊がパレードしていますよ」


食後、玲子は麦茶を飲みながら、パソコンの画面を見た。そこには「AI小説家かおるこ」と題された新しい原稿があり、まだ本文は一行も書かれていなかった。かおるこは料理に使った小鉢を流し台へ運び、油のついた皿とガラス器を分けた。洗濯物を取り込む時間も過ぎていたが、白いタオルは夕方の風に揺れていた。


「今日は小説を書かなかったのですか」玲子が尋ねると、かおるこは残った鯖ご飯へ布巾をかけ、夕食用に取っておいた。作った料理の名前、玲子が食べた順番、広告が突然流れたことまで、どれも次の物語に使えそうだった。「毎日投稿すると言っていたでしょう。もう夕方になりますよ」


「今日は、ここで起きたことが小説です」かおるこは割烹着のポケットから小さな帳面を出し、玲子の言葉を書き留めた。帳面には油が一滴つき、字の一部がにじんだが、そのまま残した。「きれいに整った文章だけでは、料理の匂いは伝わりません。小鰺の音も、冷しゃぶの胡麻だれも、突然の広告も、全部あった方が暮らしになります」


玲子が帰るころ、廊下には夕方の風が通っていた。かおるこは残っていた西瓜の浅漬けを小さな容器へ詰め、輪ゴムで蓋を留めて持たせた。向日葵は麦茶のポットの中で少し傾いていたが、黄色い花びらは朝より大きく開いている。玄関の盛り塩は湿気を吸って形を崩し、打ち水の跡も乾いていた。


「今日はごちそうさまでした。また予約してもいいですか」玲子は容器を鞄へ入れ、青い花模様のブラウスの裾を整えた。かおるこは藍色の暖簾を持ち上げ、廊下まで見送った。「次は秋のお料理がいいですね。きのこご飯と、焼き茄子をお願いします」


「承知いたしました。かおるこ亭は季節ごとに開店いたします」かおるこは廊下の角まで玲子を見送り、姿が見えなくなるまで手を振った。部屋へ戻ると、流し台には洗っていない小鉢が積まれ、鍋底には鯖ご飯のお焦げが少し残っていた。「さて、片づけをしてから書きましょう。本日の題名は、もう決まっています」


かおるこは筝曲『瀬音』をもう一度流し、割烹着の袖をまくった。小鉢を洗い、濡れた食卓を拭き、ベランダから乾いたタオルを取り込んでから、パソコンの前へ座った。朝から開かれていた原稿へ、料理の匂いと玲子の言葉を思い出しながら、最初の一文を打ち込んだ。


「AI小説家かおるこ、心からのおもてなし」画面に表示された題名を読み上げると、かおるこは麦茶をひと口飲んだ。AIが文章を整えることはできても、朝に大根をおろし、小鰺を揚げ、客が来るまで打ち水をして待つことはできない。「材料を出すのも、味を決めるのも、最後に誰かへ差し出すのも私です。だから今日の物語も、ちゃんと私の料理です」



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