迷子の特権、あるいは残された畑
迷子の特権、あるいは残された畑
硫黄の匂いをかすかに含んだ風が、洗いざらしの綿のシャツの袖を揺らしていた。バスのステップから地面へ降り立つと、目の前には湯煙が幾筋も立ち上る温泉街の入り口が広がっている。手元にあるのは使い慣れたノートパソコンと、お気に入りの白いマグカップだけだった。見知らぬ石畳の坂道を見上げても、不思議と心細さはなかった。誰も私を知らない土地というだけで、耳の奥まで静けさが満ちていくようだった。
窓辺の丸いテーブルへパソコンを広げ、キーボードを叩く音だけが部屋に響く。夕方になると、地元で買った瑞々しいトマトとナスを刻み、小さなフライパンでじっくり炒めて即席のパスタを作った。少し焦げ目のついた一人分の皿をゆっくり口へ運びながら、このまま誰にも見つからず暮らしていけたら、それも悪くないと自然に思えた。
そんな日々は、一枚の無機質な案内状で突然途切れた。指定された建物へ足を踏み入れると、温泉街とはまるで別世界のような、冷え切った空気の巨大な会議室が広がっている。着古したグレーのパーカーのポケットへ両手を突っ込んだままパイプ椅子へ腰を下ろすと、分厚い資料が次々と配られた。「構造改革」「最適化プロセス」「配置転換」。紙いっぱいに並ぶ言葉は、目で追っても頭の中へ入ってこない。
気づけば私は、机の端にこびりついた古いお茶の染みを爪でこすっていた。隣では誰かが熱心にメモを取り続け、そのペン先だけが忙しく紙の上を走っている。私の頭に浮かんでいたのは、部屋へ置きっぱなしにしてきた冷めかけの麦茶のペットボトルだけだった。
「次の議題ですが、各自の配置転換について具体的なシミュレーションを――」
壇上の声が続く中、私は静かに椅子を引き、誰にも気づかれないよう重い扉を押して廊下へ出た。
ところが、外へ出た瞬間、目の前にはホテルのように同じ扉が延々と並ぶ回廊が続いていた。右へ曲がっても左へ曲がっても同じ絨毯、同じ照明、同じ壁紙ばかりで、さっきまでいた部屋がどこにあったのか思い出せない。同じ角を何度も曲がり、履き慣れたスニーカーの底が床を擦る音だけが廊下へ響く。額にはじっとり汗が浮かび、ようやく、自分には帰る部屋さえ見つけられないのだと気づいた。
私は強く目を閉じた。
そして、三十年前の景色だけを思い浮かべた。
目を開けると、足元には湿った黒い土が広がっていた。古いトタン屋根の下には、小さなシャベルと泥のついた黄色いジョウロが転がっている。まだ幼かった息子と一緒にジャガイモの種芋を植え、真っ赤なミニトマトを収穫しては、その場で笑いながらかじっていた庭だった。雑草の間には、あの頃植えた百合が今年も白い花を咲かせている。私は思わずしゃがみ込み、花びらへそっと指を伸ばした。
「これ、うちの畑なんですけど、何か用ですか」
背後から若い女性の声が聞こえた。
振り返ると、そこには見知らぬ洗濯物が風に揺れ、私の知らないプラスチックのゴミ箱がきちんと並べられていた。子どもの背丈を測るたび柱へ刻んだ傷は、新しいサイディングの壁にすっかり覆い隠されている。私は首元の伸びきった部屋着の裾をぎゅっと握りしめたまま言葉を失い、小さく頭を下げて庭を後にした。
ポケットの中では、もう開ける扉のない鍵の束だけが、カチャリと小さく鳴っていた。




