煮魚とすり減った箸
煮魚とすり減った箸
胃の腑が締め付けられるように重く、夕暮れ時の台所に立つだけで足の裏から冷えが昇ってくるようだった。ステンレスの流し台には、昨夜使ったきり洗っていない、底に黒い煤のついた小さな片手鍋が置かれたままである。薄暗い六畳間に差し込む西日は、色あせたベージュのカーテンを斜めに切り裂き、畳の上の埃をきらきらと引き立たせていた。昼間にスーパーの特売で買った、見切り品のイワシの甘露煮は、プラスチックのパックに入ったまま醤油の匂いを微かに放っている。
「もうこんな時間か」
そう呟いて、しわの寄ったウールの長袖カーディガンの袖を肘までまくり上げた。
胸の奥がざわざわと波立ち、喉の渇きがいくら水を飲んでも収まらない。木造アパートの薄い壁の向こうからは、隣室のテレビが流すバラエティ番組の、機械的な笑い声がかすかに振動となって伝わってくる。以前は年賀状のやり取りだけは続いていた高校時代の友人たちも、定年退職や配偶者の介護を境に、いつの間にか誰一人として連絡をしてこなくなっていた。引き出しの奥に仕舞い込んだ、角の擦り切れた古い住所録を開く気力も失せて久しい。
「これでいいんだ」
自分に言い聞かせるように声に出したが、その音は狭い部屋の壁に吸い込まれて消えた。
喉の奥がツンとして、鼻の頭を指の腹で強くこすった。テーブルの端には、数日前に仕上がったばかりの、帳簿の数字が細かく並んだ青い確定申告書の控えが、用済みとなって丸まったまま置かれている。かつて事務所で電卓を叩き、他人の資産をきれいに整理していた指先は、今ではすっかりカサカサに乾き、ささくれが爪の横からいくつも突き出ていた。世界中の人間が自分という存在を忘れてしまったかのような錯覚に陥るが、指先の痛みだけが、自分がまだ生きていることを教えてくれる。
「誰も私を呼んでいない」
箸立てから取り出した、先が不揃いにすり減った塗り箸を握り締めながら、ただ一言、そう落とした。




