表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
37/47

離婚しない理由

離婚しない理由


胸の奥にあった熱が、すうっと冷えていくのを麻衣子は感じていた。


怒りでもない。


悲しみでもない。


もっと静かで、もっと決定的な何かだった。


秋雨が窓を叩く夕方だった。リビングには鶏肉と大根を煮込んだ甘辛い匂いが漂い、炊きたての白米の湯気が食卓の上に立ち上っている。


けれど麻衣子は箸を持つ気になれなかった。


目の前には夫の健司がいる。


そしてテーブルの上には、一枚のレシート。


ラブホテルの名前がはっきり印字されていた。


健司は青ざめた顔で何度も口を開きかけては閉じている。


「言い訳はあるの?」


麻衣子は自分でも驚くほど穏やかな声で尋ねた。


「その……出来心だったんだ」


「そう」


「本当に悪かった」


「そう」


あまりにも淡々と返されて、健司の方が動揺している。


麻衣子は知っていた。


三か月前から。


夫が会社の後輩と関係を持っていることも。


休日出勤が嘘だったことも。


スマートフォンの通知を隠していたことも。


全部知っていた。


知らないふりをしていただけだ。


なぜなら、その頃から少しずつ考えていたからだ。


私は本当に離婚したいのだろうか、と。


健司は震える声で言った。


「離婚したいなら受け入れる」


その言葉を聞いた瞬間、麻衣子は不思議なくらい冷静になった。


離婚。


世間は簡単にそう言う。


裏切られたら別れろ。


幸せになれ。


新しい人生を歩め。


けれど、それは本当に自分の望みなのだろうか。


麻衣子はゆっくり顔を上げた。


「離婚しないわ」


健司が目を見開く。


「え?」


「離婚しない」


「どうして……」


雨音が少し強くなる。


麻衣子は温くなったお茶を一口飲んだ。


ほうじ茶の香ばしい香りが鼻に抜ける。


そして静かに言った。


「あなたが浮気した。それはあなたの課題」


「……」


「私がどう生きるか。それは私の課題」


健司は言葉を失った。


麻衣子は最近読んだ本の一節を思い出していた。


人は他人の課題を背負わなくていい。


他人の行動の責任まで引き受けなくていい。


夫が不誠実だったことは事実だ。


だが、その結果まで自分が背負う必要はない。


「私はね」


麻衣子は続けた。


「あなたを監視しない」


「え?」


「スマホも見ないし、問い詰めない」


「でも……」


「その代わり、あなたの行動の責任は全部あなたが取って」


健司の顔色が変わる。


麻衣子は淡々と煮物を口へ運んだ。


大根は柔らかく、じんわりと出汁が染みている。


美味しい。


不思議なくらい美味しい。


数日前まで泣いていたのが嘘みたいだった。


「私は今日から、自分の人生を生きる」


「麻衣子……」


「趣味も始めるし、友達とも会うし、旅行にも行く」


「……」


「あなたが誰と会うかはあなたの自由。でも、その結果を引き受けるのもあなた」


健司は俯いた。


その肩は小さく震えていた。


怒鳴られる方が楽だっただろう。


泣かれる方が楽だっただろう。


許される方が楽だっただろう。


だが麻衣子は許したわけではない。


ただ、自分の人生を夫から切り離したのだ。


それは離婚よりもずっと重い宣告だった。


窓の外では雨が上がり始めている。


雲の切れ間から、わずかに夕焼けの光が覗いていた。


麻衣子はその光を見つめながら微笑んだ。


夫を変えることはできない。


けれど自分の生き方は選べる。


それが今の彼女にとっての答えだった。


そして健司はまだ知らない。


これから何年もかけて、自分が失ったものの大きさを思い知ることになることを。


麻衣子の最大のざまぁは復讐ではない。


自分の幸せを、夫とは無関係に築き上げることだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ