離婚しない理由
離婚しない理由
胸の奥にあった熱が、すうっと冷えていくのを麻衣子は感じていた。
怒りでもない。
悲しみでもない。
もっと静かで、もっと決定的な何かだった。
秋雨が窓を叩く夕方だった。リビングには鶏肉と大根を煮込んだ甘辛い匂いが漂い、炊きたての白米の湯気が食卓の上に立ち上っている。
けれど麻衣子は箸を持つ気になれなかった。
目の前には夫の健司がいる。
そしてテーブルの上には、一枚のレシート。
ラブホテルの名前がはっきり印字されていた。
健司は青ざめた顔で何度も口を開きかけては閉じている。
「言い訳はあるの?」
麻衣子は自分でも驚くほど穏やかな声で尋ねた。
「その……出来心だったんだ」
「そう」
「本当に悪かった」
「そう」
あまりにも淡々と返されて、健司の方が動揺している。
麻衣子は知っていた。
三か月前から。
夫が会社の後輩と関係を持っていることも。
休日出勤が嘘だったことも。
スマートフォンの通知を隠していたことも。
全部知っていた。
知らないふりをしていただけだ。
なぜなら、その頃から少しずつ考えていたからだ。
私は本当に離婚したいのだろうか、と。
健司は震える声で言った。
「離婚したいなら受け入れる」
その言葉を聞いた瞬間、麻衣子は不思議なくらい冷静になった。
離婚。
世間は簡単にそう言う。
裏切られたら別れろ。
幸せになれ。
新しい人生を歩め。
けれど、それは本当に自分の望みなのだろうか。
麻衣子はゆっくり顔を上げた。
「離婚しないわ」
健司が目を見開く。
「え?」
「離婚しない」
「どうして……」
雨音が少し強くなる。
麻衣子は温くなったお茶を一口飲んだ。
ほうじ茶の香ばしい香りが鼻に抜ける。
そして静かに言った。
「あなたが浮気した。それはあなたの課題」
「……」
「私がどう生きるか。それは私の課題」
健司は言葉を失った。
麻衣子は最近読んだ本の一節を思い出していた。
人は他人の課題を背負わなくていい。
他人の行動の責任まで引き受けなくていい。
夫が不誠実だったことは事実だ。
だが、その結果まで自分が背負う必要はない。
「私はね」
麻衣子は続けた。
「あなたを監視しない」
「え?」
「スマホも見ないし、問い詰めない」
「でも……」
「その代わり、あなたの行動の責任は全部あなたが取って」
健司の顔色が変わる。
麻衣子は淡々と煮物を口へ運んだ。
大根は柔らかく、じんわりと出汁が染みている。
美味しい。
不思議なくらい美味しい。
数日前まで泣いていたのが嘘みたいだった。
「私は今日から、自分の人生を生きる」
「麻衣子……」
「趣味も始めるし、友達とも会うし、旅行にも行く」
「……」
「あなたが誰と会うかはあなたの自由。でも、その結果を引き受けるのもあなた」
健司は俯いた。
その肩は小さく震えていた。
怒鳴られる方が楽だっただろう。
泣かれる方が楽だっただろう。
許される方が楽だっただろう。
だが麻衣子は許したわけではない。
ただ、自分の人生を夫から切り離したのだ。
それは離婚よりもずっと重い宣告だった。
窓の外では雨が上がり始めている。
雲の切れ間から、わずかに夕焼けの光が覗いていた。
麻衣子はその光を見つめながら微笑んだ。
夫を変えることはできない。
けれど自分の生き方は選べる。
それが今の彼女にとっての答えだった。
そして健司はまだ知らない。
これから何年もかけて、自分が失ったものの大きさを思い知ることになることを。
麻衣子の最大のざまぁは復讐ではない。
自分の幸せを、夫とは無関係に築き上げることだった。




