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第2話 辺境のメスと王宮の綻び

第2話 辺境のメスと王宮の綻び


エレノアは、自分を見つめる村人たちの不安な目に胸が締め付けられる思いだった。


誰もが助けを求めている。


けれど同時に怯えていた。


もし村唯一の医師が死ねば、この村は終わる。


そんな絶望が診療所の空気を重くしていた。


外では吹雪が窓を叩いている。


古い木造の診療所は隙間風が入り込み、暖炉だけでは十分に暖かいとは言えなかった。


床に倒れた老医師の顔色は青白い。


呼吸は苦しそうに荒い。


胸の奥からごろごろと不快な音が響いていた。


エレノアは静かに息を吐く。


焦ってはいけない。


恐れてもいけない。


患者が不安になる。


医師が最初に失うべきものは恐怖だ。


「皆さん、聞いてください」


凛とした声が診療所に響く。


「今からこの方を助けます」


村人たちが顔を上げた。


「ですが私一人ではできません」


その言葉に何人かが戸惑う。


貴族は命令するもの。


自分たちは従うもの。


そう思っていたからだ。


だがエレノアは違った。


「皆さんの力が必要です」


そう言って深く頭を下げた。


診療所が静まり返る。


公爵令嬢が。


しかも王子の婚約者だった女性が。


自分たちに頭を下げている。


「お願いします」


最初に動いたのは先ほどの少女だった。


七歳ほどの小さな女の子。


栗色の髪を三つ編みにしている。


「わたし、がんばる!」


その声に大人たちも我に返った。


「お、おう!」


「布を持ってくる!」


「薪を割るぞ!」


「井戸から水だ!」


診療所が一気に動き始める。


エレノアは微笑んだ。


これでいい。


医療は一人ではできない。


人が人を助けるから命は救える。


それが彼女の信念だった。


数時間後。


老医師の呼吸は少し落ち着いていた。


熱も下がり始めている。


エレノアは椅子に腰掛け、ようやく肩の力を抜いた。


「ふう……」


その時だった。


「先生!」


少女が駆け込んでくる。


「目を開けた!」


エレノアはすぐ立ち上がった。


ベッドへ向かう。


老医師は薄く目を開いていた。


「気分はいかがですか」


老人はゆっくりと彼女を見る。


「助けられた……ようですな」


「ええ」


「見事です」


老人は苦しそうに笑った。


「王都の医師ですかな」


「元公爵令嬢です」


その言葉に周囲がざわめく。


老人は目を丸くした。


「追放されたという噂の……」


「噂は広まるのが早いですね」


エレノアが苦笑すると、老人も笑った。


「こんな辺境に来る方ではない」


「そんなことありません」


エレノアは窓の外を見る。


雪景色が広がっていた。


白く静かな世界。


「病人がいる場所が、私のいる場所です」


老人は言葉を失った。


村人たちも黙っていた。


その夜。


村人たちは歓迎の食事会を開いてくれた。


と言っても豪華なものではない。


大鍋いっぱいの野菜スープ。


黒パン。


燻製肉。


山羊の乳から作ったチーズ。


けれど温かかった。


湯気と共に玉ねぎの甘い香りが広がる。


冷えた身体に染み渡る匂いだった。


「先生、これ食べて!」


少女がパンを差し出す。


「ありがとう」


エレノアは受け取った。


久しぶりに心から美味しいと思えた。


王宮の豪華な料理よりも。


何倍も。


「先生って呼ばれるの、嫌じゃないの?」


少女が首を傾げる。


「どうして?」


「だって貴族様だもん」


エレノアは笑った。


「先生の方が好きよ」


「ほんと?」


「ええ」


少女は嬉しそうに笑った。


その笑顔を見ていると、不思議と追放されたことなどどうでもよく思えてくる。


だが。


その頃。


王都では別の嵐が始まっていた。


王宮会議室。


レオナルドは机を叩いた。


「まだ終わらんのか!」


会計官たちは青ざめている。


机の上には大量の帳簿。


数字。


計画書。


医療予算。


薬品輸送計画。


流行病対策資料。


だが誰も理解できなかった。


「申し訳ございません」


「何が書いてあるのか分からないのか!」


「いえ……」


老会計官が震える声で答えた。


「完璧すぎるのです」


「は?」


「無駄がありません」


会議室が静まり返る。


「薬品輸送費も」


「地方診療所予算も」


「備蓄計画も」


「全て連動しております」


会計官は額の汗を拭った。


「一つ変更すると全体が崩れます」


レオナルドは理解できなかった。


ミレーヌも困惑している。


「そんなに大変なの?」


会計官たちが同時に頷いた。


「エレノア様お一人で管理されていました」


その瞬間。


レオナルドの胸に嫌な感覚が走った。


婚約者だった十年間。


彼女は何をしていたのか。


本当に医術書ばかり読んでいただけだったのか。


「殿下!」


衛兵が飛び込んできた。


「今度は何だ!」


「北部で流行病発生の報告です!」


会議室の空気が凍った。


「対策班を出せ!」


「それが……」


衛兵が言葉を詰まらせる。


「対策班の責任者が空席です」


「なぜだ!」


誰も答えられない。


答えは全員分かっていた。


その役職を担っていたのは。


追放されたエレノアだったからだ。


レオナルドは拳を握り締めた。


胸の奥に小さな後悔が生まれる。


だがその後悔は、まだ始まりに過ぎなかった。


遠く離れたルミナ村。


診療所の窓辺で、エレノアは温かな薬草茶を飲んでいた。


カモミールに似た香りが立ち上る。


隣では助かった老医師が眠っている。


静かな夜だった。


だが彼女はまだ知らない。


自分を失った王都が、少しずつ崩れ始めていることを。


そして、その綻びがやがて王国全体を揺るがす大事件へ発展していくことを。


続く。


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