コードブルー
第一話 白い薔薇とコードブルー
エレノアは、自分の胸の奥で何かが静かに終わる音を聞いた気がした。
王宮の大広間は、今夜も眩しいほど華やかだった。
天井を埋め尽くす巨大なシャンデリア。磨き上げられた白大理石の床。金糸で刺繍された礼服やドレスに身を包んだ貴族たち。焼きたての鴨肉の香り、甘い葡萄酒の匂い、香水の芳香が入り混じり、会場は祝祭の熱気に包まれている。
けれどエレノアには、そのすべてが遠かった。
十年間婚約者だった相手が、自分を見つめる目に、もはや情など欠片も残っていないことだけが分かったからだ。
深紅のドレスの裾を揺らしながら、彼女は静かに立っていた。
胸元にはルビーの首飾り。
まるで血のように赤い宝石だった。
その赤が妙に冷たく見えた。
「エレノア・フォン・ローゼンベルク!」
第一王子レオナルドの声が響く。
楽団の演奏が止まった。
会場中の視線が集まる。
「私はお前との婚約を破棄する!」
どよめきが広がった。
誰もが息を呑む。
エレノアは静かに顔を上げた。
「理由をお聞かせ願えますか、殿下」
「理由だと?」
レオナルドは隣に立つ少女の腰を抱き寄せた。
男爵令嬢ミレーヌ。
柔らかな栗色の髪を揺らし、勝ち誇った笑みを浮かべている。
「お前は冷酷だ!」
レオナルドが叫ぶ。
「患者、患者と口にするばかりで社交界にも顔を出さない! 医術書ばかり読んでいる! 王妃としての自覚がない!」
会場から同意するような声が漏れる。
エレノアは小さく目を伏せた。
悲しみはあった。
だが怒りよりも寂しさが勝っていた。
彼は何も知らない。
自分がなぜ医術を学び続けたのか。
なぜ毎週貧民街へ通ったのか。
なぜ寝る間も惜しんで治療法を研究していたのか。
何一つ。
「ミレーヌは違う!」
レオナルドは続ける。
「優しく、人々を愛し、誰からも慕われている!」
「そうですわ」
ミレーヌが可憐な笑顔を浮かべた。
「私は殿下を支えたいだけなのです」
その言葉に何人かの貴族が拍手した。
エレノアはただ見つめた。
そして静かに問いかける。
「殿下。三年前の冬を覚えておいでですか」
「何?」
「疫病が流行した時です」
レオナルドは眉をひそめた。
覚えていない。
その反応だけで十分だった。
あの冬、王都では数百人が病に倒れた。
エレノアは三日三晩眠らず患者を診た。
王宮医師たちと治療法を探し続けた。
その間、レオナルドは舞踏会に出席していた。
「……何が言いたい」
「いいえ」
エレノアは首を振った。
もう説明する意味はない。
理解する気のない相手に言葉は届かない。
「以上だ!」
レオナルドが声を張り上げる。
「エレノアを北方辺境ルミナ村へ追放する!」
再びざわめきが広がる。
北方辺境。
雪と飢えと病の土地。
貴族令嬢にとっては流刑地も同然だった。
だがエレノアは驚くほど落ち着いていた。
「承知いたしました」
「……それだけか?」
レオナルドが戸惑う。
「泣かないのか」
「なぜでしょう」
「お前は全てを失ったのだぞ!」
その言葉に、エレノアは初めて微笑んだ。
とても静かな笑みだった。
「私は医師ですから」
会場が静まり返る。
「命を救う仕事をしていると、肩書きがどれほど脆いものか分かるのです」
そう言い残し、エレノアは背を向けた。
深紅のドレスが揺れる。
その姿を見送りながら、なぜかレオナルドの胸には小さな苛立ちが生まれていた。
まるで自分が何かを失ったような感覚だった。
その夜。
ローゼンベルク公爵邸。
食堂には最後の晩餐が並んでいた。
香草で焼き上げた牛肉。
じゃがいものポタージュ。
焼きたての小麦パン。
林檎のタルト。
けれど父も娘もほとんど手を付けなかった。
暖炉の火だけが静かに揺れている。
「すまない」
父アルフォンスが低く呟いた。
「私がもっと力を持っていれば」
エレノアは首を振る。
「お父様のせいではありません」
「だが私は公爵だ」
「そして良い父です」
アルフォンスの目が潤む。
エレノアは幼い頃を思い出していた。
母を亡くした日。
泣き続ける自分を抱きしめてくれた大きな手。
熱を出した夜に付き添ってくれた背中。
医術を学びたいと言った時も反対しなかった。
「人を助けたいなら学びなさい」
そう言ってくれた人だった。
「辺境は大変だぞ」
「でしょうね」
「寒いし貧しい」
「患者さんがいます」
父は苦笑した。
「お前は本当に変わらんな」
「褒め言葉として受け取ります」
二人はようやく少しだけ笑った。
だが父の顔には別の影もあった。
王宮財政。
不自然な予算。
王子の浪費。
そして最近急増した不透明な支出。
何かがおかしい。
だがまだ確証はない。
アルフォンスは胸の内に疑念を押し込めた。
翌朝。
エレノアは王都を発った。
赤いドレスではなく、厚手の紺色の旅装束を身にまとっている。
白い毛皮の外套。
革の手袋。
荷物の大半は医学書と薬品だった。
馬車は北へ進む。
雪が増えていく。
冷たい風が窓を叩く。
そして三日後。
ルミナ村へ到着した。
エレノアは息を呑んだ。
貧しい。
想像以上だった。
壊れた家々。
痩せた子供たち。
薬草すら不足している診療所。
病人の咳があちこちから聞こえる。
胸が痛んだ。
その時だった。
「先生が倒れた!」
叫び声が響く。
村人たちが駆け出す。
エレノアも走った。
診療所の中では白髪の老人が床に倒れていた。
村唯一の医師だった。
顔色は紫色に近い。
呼吸が荒い。
胸の音も異常だ。
エレノアは即座に診察を始めた。
周囲の村人たちは不安そうに見守る。
「先生!」
「助かるのか!?」
「お願いだ!」
恐怖で誰も動けない。
エレノアは立ち上がった。
その瞬間、追放された公爵令嬢の顔は消えていた。
そこにいたのは命を救う医師だった。
「皆さん、落ち着いてください」
凛とした声が響く。
「お湯を用意してください」
「は、はい!」
「清潔な布を集めてください」
「わ、分かった!」
村人たちが動き始める。
エレノアは老人の胸に手を当てた。
危険な状態だ。
一刻の猶予もない。
だが助けられる。
まだ間に合う。
エレノアは深く息を吸った。
そして力強く宣言した。
「今からコードブルーです」
村人たちが顔を見合わせる。
「こーど……?」
「命の危機という意味です」
診療所の空気が張り詰めた。
窓の外では雪が降り続いている。
赤いルビーの世界は終わった。
これから始まるのは青い警報の世界。
誰かの命を救うための戦いだった。




