第1話 文字の向こうにある光
第1話 文字の向こうにある光
胸の奥がざわざわしていた。
冬の終わりを告げるような冷たい風が窓ガラスを揺らしている。東京都板橋区の古い団地。その一室で、薫子は湯気の立つマグカップを両手で包み込みながら、小さくため息をついた。
インスタントコーヒーの香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
けれど心は晴れない。
机の上にはノートパソコンが置かれていた。画面には自分が書いた小説の投稿サイトが表示されている。
薫子は五十代だった。
若い頃から本を読むことが好きだった。
物語も好きだった。
けれど文字を読むのは、人よりずっと大変だった。
一行読むだけで疲れる。
何度も同じ場所を見失う。
頭の中では理解しているのに、目が追いつかない。
子供の頃は怠け者だと言われた。
社会人になってからは努力不足だと思われた。
ようやく大人になってから、自分が識字障害を抱えていることを知った。
「私だって好きで読めないわけじゃないのにね」
ぽつりと呟く。
誰もいない部屋に声が消えていった。
窓辺にはパンジーの鉢植えが置かれている。
紫色の花が夕日に照らされていた。
その時だった。
パソコンから電子音が鳴った。
投稿していた小説に感想が届いたらしい。
薫子は音声読み上げソフトを起動した。
機械音声が静かに流れる。
『面白かったです』
『続きが楽しみです』
『主人公に共感しました』
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少し温かくなった。
「ありがとう」
誰に言うでもなく呟く。
たった一言の感想。
それなのに涙が出そうだった。
ずっと誰にも伝わらないと思っていた。
自分の言葉なんて価値がないと思っていた。
それでも読んでくれる人がいる。
それだけで救われる。
夕方になり、薫子は夕食の支度を始めた。
冷蔵庫から大根と人参を取り出す。
鶏肉も少し残っていた。
鍋にだしを張り、野菜を切る。
包丁がまな板を叩く音が小気味よく響く。
湯気が立ち上り、だしの香りが部屋を満たした。
「今日はうまくできそう」
独り言を言いながら微笑む。
煮物が出来上がる頃には外は真っ暗になっていた。
テレビはつけない。
代わりに小さなラジオを流す。
昔ながらの暮らしだった。
スマートフォンも持っていない。
流行も分からない。
動画編集もできない。
それでも物語を書くことだけは好きだった。
食事を終えた後、薫子は再びパソコンの前に座った。
そこでふと、ある記事を思い出した。
AI小説。
最近よく聞く言葉だった。
最初は嫌悪感もあった。
楽をしているように見えたからだ。
けれど実際に使ってみると違った。
むしろ大変だった。
何を書きたいのか。
主人公は何を感じるのか。
どんな景色が見えるのか。
それを伝えなければAIは動かない。
結局、物語の心臓部分は人間が作らなければならないのだ。
「だったら、私にもできるかもしれない」
薫子は呟いた。
AIは目の代わりになってくれる。
読みづらい文章を整理してくれる。
誤字も探してくれる。
一人では届かなかった場所へ手を伸ばしてくれる。
そう考えた瞬間だった。
胸の奥に、小さな希望の火が灯った。
翌朝。
薫子は早起きした。
灰色のカーディガンを羽織り、台所で味噌汁を作る。
豆腐とわかめの香りが湯気とともに広がる。
焼いた鮭の皮がぱちぱちと音を立てる。
炊き立てのご飯から白い湯気が立ち上っていた。
朝食を食べながらノートを開く。
そして書いた。
『AI小説で収入を得る』
大きな文字で。
もちろん簡単ではない。
すぐにお金になる保証もない。
けれど何もしなければ何も変わらない。
感想をくれた読者。
応援してくれる人たち。
自分の物語を待ってくれる人たち。
その存在を思い出す。
「よし」
薫子は拳を握った。
「今日も書こう」
窓の外では朝日が昇っていた。
柔らかな光が部屋の中へ差し込む。
パンジーの花びらが輝いている。
識字障害があってもいい。
スマートフォンがなくてもいい。
人より遅くてもいい。
物語を書きたい気持ちは誰にも負けない。
薫子はパソコンの電源を入れた。
画面が明るくなる。
まるで新しい世界への扉が開くように。
その光を見つめながら、薫子は静かに微笑んだ。
彼女の挑戦は、まだ始まったばかりだった。




