薔薇の残り香と金の天秤
薔薇の残り香と金の天秤
冷えたコンクリートの匂いが、かすかに鼻をくすぐった。
六月の夕暮れだった。
板橋の古いアパートの一室では、窓辺に置かれたオールド・ブラッシュの薔薇が静かに揺れている。淡い桃色の花びらから漂う甘い香りは、湿り気を帯びた風に乗って部屋の隅々まで広がっていた。
香澄は胸の奥が重く沈むような感覚に襲われていた。
机の上には決算書や契約書の束が積み上がり、その横ではノートパソコンが淡い光を放っている。
文字が霞む。
行が重なる。
数字が滲む。
無理に目を凝らせば凝らすほど、紙の上の情報は霧の向こうへ遠ざかっていく。
香澄は目を閉じた。
サックスブルーの麻のブラウスの襟元をそっと握る。
「やっぱり駄目ね……」
小さく呟いた声には疲労が滲んでいた。
会計士として四十年以上働いてきた。
数字を見ることが仕事だった。
けれど年齢を重ねるにつれ、文字を読むことは少しずつ困難になっていた。
それでも数字の違和感だけは消えない。
むしろ鋭くなっている気さえした。
「母さん」
背後から優しい声が聞こえた。
振り返ると、和寿が湯気の立つマグカップを持って立っている。
「少し休みなよ」
「ありがとう」
香澄は受け取ったカップを両手で包み込んだ。
カモミールティーの優しい香りが立ち上る。
林檎を思わせる甘い匂いに、張り詰めていた神経が少しだけ緩んだ。
台所からは夕食の匂いも漂ってくる。
圧力鍋で煮込んだ手羽元と大根の甘辛煮だ。
醤油と生姜の香りが部屋を満たしていた。
「例の案件か」
和寿が机の上の書類を見た。
「ルミナス・トレーディング」
香澄は静かに頷く。
「何か変なのよ」
「数字?」
「ええ」
香澄は指先で決算書をなぞった。
「説明は難しいんだけど……綺麗すぎるの」
「綺麗すぎる?」
「帳簿って人間の営みなのよ。だから必ず癖がある。ミスもある。修正もある。予想外もある。でもこの会社の数字には人間の匂いがしない」
和寿は黙って聞いていた。
香澄は続ける。
「売上も経費も利益率も、全部が予定調和なの。まるで最初から完成図があって、それに合わせて作られた数字みたい」
「粉飾ってこと?」
「まだ分からない。でも嘘が混じっている気がする」
和寿は椅子を引いて隣に座った。
「藤堂社長か」
その名前に香澄は眉をひそめた。
藤堂健吾。
三十代半ばの若手経営者。
人当たりは良い。
話術も巧みだ。
初対面では誰もが好青年だと思うだろう。
だが香澄はどうしても好きになれなかった。
言葉は丁寧なのに、目が笑っていない。
人を見る時の視線が値札を見る時のそれに似ていた。
「先生のお力をぜひお借りしたいんです」
「先生の経験は宝です」
「私は先生を尊敬しています」
藤堂はいつもそう言う。
しかし香澄には分かっていた。
あれは敬意ではない。
利用価値を測る目だ。
「母さん」
「なに?」
「俺が読むよ」
和寿は決算書を手に取った。
「母さんは聞いて判断して」
香澄は少しだけ笑った。
「そうね。それが一番早いかもしれない」
和寿が数字を読み上げる。
売上高。
外注費。
交際費。
広告宣伝費。
香澄は目を閉じたまま聞いていた。
数字が頭の中で立体的に組み上がっていく。
十分ほど経った頃だった。
「止めて」
香澄が言った。
「どうした?」
「もう一度、外注費」
和寿が読み直す。
三年前。
二年前。
昨年。
今年。
香澄は黙り込んだ。
そしてパソコンに向かう。
「この推移を整理して」
AIに音声入力で指示を出す。
数秒後、読み上げ音声が返ってきた。
『外注費の増加率が売上高の増加率と異常なほど一致しています。統計的には不自然です』
香澄の背筋に冷たいものが走った。
「やっぱり」
「見つけたのか?」
「まだ入口よ」
香澄は静かに答えた。
「でも、この数字のどこかに大きな嘘が隠れている」




