表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
33/47

薔薇の残り香と金の天秤

薔薇の残り香と金の天秤


冷えたコンクリートの匂いが、かすかに鼻をくすぐった。


六月の夕暮れだった。


板橋の古いアパートの一室では、窓辺に置かれたオールド・ブラッシュの薔薇が静かに揺れている。淡い桃色の花びらから漂う甘い香りは、湿り気を帯びた風に乗って部屋の隅々まで広がっていた。


香澄は胸の奥が重く沈むような感覚に襲われていた。


机の上には決算書や契約書の束が積み上がり、その横ではノートパソコンが淡い光を放っている。


文字が霞む。


行が重なる。


数字が滲む。


無理に目を凝らせば凝らすほど、紙の上の情報は霧の向こうへ遠ざかっていく。


香澄は目を閉じた。


サックスブルーの麻のブラウスの襟元をそっと握る。


「やっぱり駄目ね……」


小さく呟いた声には疲労が滲んでいた。


会計士として四十年以上働いてきた。


数字を見ることが仕事だった。


けれど年齢を重ねるにつれ、文字を読むことは少しずつ困難になっていた。


それでも数字の違和感だけは消えない。


むしろ鋭くなっている気さえした。


「母さん」


背後から優しい声が聞こえた。


振り返ると、和寿が湯気の立つマグカップを持って立っている。


「少し休みなよ」


「ありがとう」


香澄は受け取ったカップを両手で包み込んだ。


カモミールティーの優しい香りが立ち上る。


林檎を思わせる甘い匂いに、張り詰めていた神経が少しだけ緩んだ。


台所からは夕食の匂いも漂ってくる。


圧力鍋で煮込んだ手羽元と大根の甘辛煮だ。


醤油と生姜の香りが部屋を満たしていた。


「例の案件か」


和寿が机の上の書類を見た。


「ルミナス・トレーディング」


香澄は静かに頷く。


「何か変なのよ」


「数字?」


「ええ」


香澄は指先で決算書をなぞった。


「説明は難しいんだけど……綺麗すぎるの」


「綺麗すぎる?」


「帳簿って人間の営みなのよ。だから必ず癖がある。ミスもある。修正もある。予想外もある。でもこの会社の数字には人間の匂いがしない」


和寿は黙って聞いていた。


香澄は続ける。


「売上も経費も利益率も、全部が予定調和なの。まるで最初から完成図があって、それに合わせて作られた数字みたい」


「粉飾ってこと?」


「まだ分からない。でも嘘が混じっている気がする」


和寿は椅子を引いて隣に座った。


「藤堂社長か」


その名前に香澄は眉をひそめた。


藤堂健吾。


三十代半ばの若手経営者。


人当たりは良い。


話術も巧みだ。


初対面では誰もが好青年だと思うだろう。


だが香澄はどうしても好きになれなかった。


言葉は丁寧なのに、目が笑っていない。


人を見る時の視線が値札を見る時のそれに似ていた。


「先生のお力をぜひお借りしたいんです」


「先生の経験は宝です」


「私は先生を尊敬しています」


藤堂はいつもそう言う。


しかし香澄には分かっていた。


あれは敬意ではない。


利用価値を測る目だ。


「母さん」


「なに?」


「俺が読むよ」


和寿は決算書を手に取った。


「母さんは聞いて判断して」


香澄は少しだけ笑った。


「そうね。それが一番早いかもしれない」


和寿が数字を読み上げる。


売上高。


外注費。


交際費。


広告宣伝費。


香澄は目を閉じたまま聞いていた。


数字が頭の中で立体的に組み上がっていく。


十分ほど経った頃だった。


「止めて」


香澄が言った。


「どうした?」


「もう一度、外注費」


和寿が読み直す。


三年前。


二年前。


昨年。


今年。


香澄は黙り込んだ。


そしてパソコンに向かう。


「この推移を整理して」


AIに音声入力で指示を出す。


数秒後、読み上げ音声が返ってきた。


『外注費の増加率が売上高の増加率と異常なほど一致しています。統計的には不自然です』


香澄の背筋に冷たいものが走った。


「やっぱり」


「見つけたのか?」


「まだ入口よ」


香澄は静かに答えた。


「でも、この数字のどこかに大きな嘘が隠れている」




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ