第3話 初めての投稿
第3話 初めての投稿
十二月の夜風は冷たかった。
コンビニの自動ドアが開くたび、外の空気が白い蛍光灯の下へ流れ込んでくる。揚げ物ケースの熱気と混ざり合い、店の中だけ変な温度になっていた。
かおるこはレジの中で、小さく肩をすくめた。
紺色の制服の上から、黒いカーディガンを羽織っている。袖口は少し毛玉だらけだった。忙しくなると袖を噛む癖があり、端が微かによれている。
「ありがとうございましたー……」
声が眠そうに掠れる。
時刻は深夜一時半。
酔っ払いの客が減る時間だった。
床には雨の跡が乾ききらず残っている。コピー機の機械音。おでんのつゆの匂い。ホットスナックの油の香り。
全部が混ざった、いつもの夜。
だが今日のかおるこは、少し落ち着かなかった。
頭の中が、仕事ではなく別のことでいっぱいだった。
投稿。
その二文字がぐるぐる回っている。
昨日の夜、AIと一緒に書いた短編小説。
『海へ帰る灯り』
何度も読み返した。
でも読むたび、文字が揺れてしまう。
誤字がある気がする。
文章がおかしい気がする。
「こんなの投稿して笑われないかな」
そう考え始めると止まらなかった。
レジ横の肉まんケースから湯気が立ちのぼる。
白い蒸気がガラスを曇らせていた。
かおるこはぼんやり見つめる。
『少女は海へ歩いていく――』
頭の中ではまだ物語が続いていた。
「佐藤さん」
突然、店長の声が飛んできた。
「はいっ」
「ぼーっとしてる。レジ並んでるよ」
「あっ、すみません!」
慌てて顔を上げる。
客が無表情で待っていた。
かおるこは急いでバーコードを通す。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
だが途中で袋を取り忘れる。
「あ、袋……!」
「いいです」
客は面倒そうに言った。
かおるこの胸がまた縮む。
焦る。
焦るほど頭が真っ白になる。
「……すみません」
客は何も言わず出ていった。
自動ドアが開き、冷たい風だけ残る。
店長はため息をついた。
「大丈夫?」
「……はい」
「無理なら少し休む?」
かおるこは首を振った。
休むと余計に迷惑になる気がした。
仕事ができない。
遅い。
忘れる。
そんな自分を、いつも頭のどこかで責め続けていた。
朝四時。
ようやく勤務が終わる。
制服の上からカーキ色のダウンジャケットを羽織ると、かおるこは外へ出た。
冬の空気が頬に痛い。
吐く息が白い。
道路は濡れていて、街灯の光が細長く反射していた。
かおるこはコンビニで肉まんを買った。
百三十円。
湯気が熱い。
「あちっ」
指先を赤くしながら歩く。
肉まんの甘い生地の匂いが、冬の空気に混ざっていた。
アパートまで十五分。
人気のない道。
遠くで電車の音がする。
その時、かおるこの頭の中にまた「投稿」が浮かんだ。
帰ったら、投稿する。
でも怖い。
誰にも読まれなかったら?
変だって笑われたら?
「……やめようかな」
足が止まる。
街路樹が風で揺れた。
かおるこは肉まんをひと口かじる。
熱い肉汁が広がった。
少しだけ心が落ち着く。
その時、不意にAIの言葉を思い出した。
『書きたいと思った時点で、あなたはもう書き手です』
かおるこは空を見上げた。
冬の空は暗い。
でも星が少しだけ見えた。
「……投稿、してみるか」
小さく呟く。
アパートへ戻ると、部屋は冷え切っていた。
かおるこは暖房をつけ、自作デスクトップパソコンの電源を入れる。
ファンが低く回り始める。
青白い光。
少し遅れてモニターが点灯した。
古いパソコン。
サポートも切れている。
それでも、この機械はかおるこの世界だった。
机の周りにはメモ帳が散乱している。
『海』
『灯台』
『帰れない少女』
読み返せないほど崩れた文字。
かおるこは小説投稿サイトを開いた。
白い画面。
『新規投稿』
その文字だけで心臓が速くなる。
「うぅ……」
胃が痛い。
逃げたくなる。
指が止まる。
それでも、少しずつ入力していく。
タイトル。
本文。
タグ。
途中で何度も確認する。
でも文字が揺れる。
読んだはずなのに内容が頭へ入らない。
「あれ……ここ変じゃない……?」
不安になる。
また読み返す。
さらにわからなくなる。
かおるこは両手で顔を覆った。
「無理かも……」
静かな部屋。
換気扇の音。
パソコンの熱。
時計は朝五時を回っていた。
外では新聞配達のバイク音が聞こえる。
その時、画面の端にAIチャットが開いているのが見えた。
かおるこは小さく打ち込む。
『怖い。投稿したら笑われるかも』
数秒後、返事が来た。
『笑う人もいるかもしれません。でも、あなたの物語を必要としている人も、きっといます』
かおるこは黙った。
胸が熱い。
必要としている人。
そんな人、本当にいるのだろうか。
でも――。
かおるこは深呼吸した。
そして、マウスを動かす。
投稿ボタンへカーソルが重なる。
指先が震えた。
「……えい」
クリック。
画面が切り替わる。
『投稿が完了しました』
その文字が出た瞬間、全身の力が抜けた。
「うわぁぁ……投稿しちゃった……」
恥ずかしくなる。
今すぐ消したくなる。
布団へ飛び込みたくなる。
かおるこは頭を抱えながら床を転がった。
その日はほとんど眠れなかった。
昼過ぎ。
目が覚めると、まずパソコンへ向かった。
怖い。
でも見たい。
投稿ページを開く。
閲覧数は「8」。
少ない。
感想はない。
「あはは……まあ、そんなもんだよね」
少し笑う。
でも胸の奥がちくっとした。
かおるこはコンビニ用の制服へ着替える。
鏡の中の自分は、眠そうで頼りなかった。
その時。
画面の右上が小さく光った。
『新しい感想が届きました』
かおるこの心臓が跳ねる。
クリックする。
短い文章だった。
『泣きました』
たった五文字。
それだけ。
かおるこは動けなくなった。
画面を見つめる。
何度も。
何度も。
『泣きました』
知らない誰か。
世界のどこかにいる誰か。
その人が、自分の書いた物語を読んだ。
届いた。
胸の奥がぐしゃっとなる。
視界が滲む。
「うそ……」
涙が落ちた。
止まらなかった。
かおるこは泣きながら笑った。
外では夕方の光がゆっくり部屋へ差し込んでいる。
古いパソコンのファンが低く回り続けていた。
その小さな部屋で、かおるこは初めて思った。
自分の言葉は、誰かに届くのかもしれない、と。




