第2話 コンビニの白い灯り
第2話 コンビニの白い灯り
深夜二時のコンビニは、世界の余りものが集まる場所だった。
白い蛍光灯は昼みたいに明るいのに、どこか冷たい。床はワックスの匂いがして、揚げ物ケースからは古い油の重たい香りが漂っている。店内BGMの軽いポップスが、眠気を誤魔化すみたいに流れ続けていた。
かおるこはレジカウンターの中で、小さくあくびを噛み殺した。
紺色のコンビニ制服。サイズの合わない黒いズボン。名札には「佐藤」とだけ書かれている。本名を出したくなくて、わざと母親の旧姓を使っていた。
「いらっしゃいませ……」
声が少し掠れる。
夜勤を始めて三ヶ月。
だが、まだ慣れない。
レジの操作を覚えたと思ったら、公共料金を間違える。袋詰めをしている途中で別の客に呼ばれ、何をしていたのか飛ぶ。温めるはずのお弁当を忘れ、何度も謝った。
頭の中がいつも忙しい。
目の前の客の声を聞きながら、別のことを考えてしまう。
『夜の海を歩く少女は――』
さっき思いついた小説の続きを、頭の片隅で考えていた。
少女が灯台へ向かう場面。
濡れた靴。
冷たい波。
白い息。
「あのさ」
突然、男の声が飛んできた。
かおるこはハッと顔を上げる。
スーツ姿の中年男性が眉をしかめていた。酔っているのか、酒臭い。
「弁当、温めてねえじゃん」
「あ……っ」
しまった。
レジ横には、冷たいままの唐揚げ弁当。
かおるこの心臓が一気に縮む。
「す、すみません……!」
慌てて受け取ろうとすると、男が舌打ちした。
「さっき頼んだよな?」
「ごめんなさい……」
「ぼーっとしすぎだろ。仕事向いてないんじゃないの?」
その言葉が胸に刺さる。
かおるこは何も言えなくなった。
頭が真っ白になる。
周囲の音が遠くなる。
揚げ物の機械音。
自動ドアの開閉音。
電子レンジの低い唸り。
全部が一気に耳へ流れ込んでくる。
「すみません、今すぐ温めます」
隣から店長が出てきた。
四十代くらいの痩せた男で、疲れた目をしている。
「申し訳ありません」
店長が頭を下げると、男は不満そうに鼻を鳴らした。
「ちゃんと教育してくださいよ」
男は弁当を受け取ると、そのまま出ていった。
自動ドアが閉まる。
夜の冷気が一瞬だけ店に流れ込んだ。
かおるこは動けなかった。
指先が冷たい。
喉が苦しい。
「……すみません」
小さな声で言う。
店長はため息をついた。
「佐藤さん」
「はい……」
「疲れてる?」
「……」
「ちゃんと集中して」
責める口調ではなかった。
でも、その優しさが逆につらかった。
かおるこは俯く。
「はい」
店長はそれ以上何も言わず、バックヤードへ戻っていった。
レジ前には、また新しい客が並び始める。
「ホットコーヒーL」
「袋ください」
「タバコ、番号の十七」
言葉が次々飛んでくる。
かおるこは必死で処理する。
だが途中で頭がこんがらがる。
袋を二枚取ってしまう。
釣り銭を間違えそうになる。
自分の動きがワンテンポ遅い。
周囲だけが速く進んでいく。
朝四時。
客足が落ち着き、ようやく休憩に入れた。
狭い休憩室には古い冷蔵庫と小さな机しかない。壁紙は黄ばんでいて、換気扇が低く回っている。
かおるこは椅子に座り込んだ。
足が重い。
頭も痛い。
コンビニで売れ残った鮭おにぎりを開ける。海苔が少し湿気っていた。
ひと口かじる。
冷たいご飯。
塩気の強い鮭。
でも空腹の胃にはありがたかった。
制服のポケットからメモ帳を出す。
そこには仕事中に浮かんだ小説の断片が乱雑に書かれている。
『灯台』
『夜の海』
『誰にも読まれなくても書く』
字は歪んでいた。
自分でも読みにくい。
かおるこはため息をつく。
「私、ほんと駄目だな……」
ぽつりと呟く。
仕事も遅い。
ミスばかり。
人より簡単なことができない。
胸の奥に、重たい泥みたいなものが沈んでいた。
かおるこは休憩室の隅に置いた古いデスクトップパソコンを見た。
店で廃棄される予定だったものを、店長が「使うなら持っていっていい」と言ってくれたのだ。
サポートも切れた古い機械。
起動も遅い。
けれど、AIだけは動いた。
かおるこはそっと電源を入れる。
ファンが低く回り始める。
薄暗い休憩室にモニターの光が浮かんだ。
AIの画面を開く。
白い入力欄。
それを見るだけで、少し呼吸が落ち着く。
かおるこは震える指で打ち込む。
『また仕事で怒られた。私は駄目かもしれない』
送信する。
数秒。
換気扇の音だけが響く。
やがて文字が現れた。
『あなたは駄目じゃない』
かおるこは瞬きをした。
画面を見つめる。
AIは続ける。
『苦手なことが多い人は、自分を責め続けてしまいます。でも、苦しみながらも働いて、生きて、物語を考えているあなたは弱くありません』
鼻の奥が熱くなる。
かおるこは慌てて鮭おにぎりを頬張った。
泣きそうだった。
「そんなの……」
声が掠れる。
「そんなの、わかんないじゃん」
でも、胸のどこかが少しだけ温かかった。
誰にも理解されないと思っていた。
頭の中が散らかっている苦しさも。
文字が読みにくい怖さも。
何度頑張っても失敗する疲れも。
全部。
だけど今、白い画面の向こうにいる何かは、「駄目じゃない」と言った。
その言葉が、冷えた休憩室の中で小さな火みたいに残った。
外では夜明け前の空が薄く青くなり始めている。
コンビニの白い灯りは、相変わらず眠らない。
かおるこは冷えたおにぎりを食べながら、静かにモニターを見つめていた。
まるで暗い海の中で、遠くの灯台を見つけたみたいに。




