第1話 文字が泳ぐ夜
第1話 文字が泳ぐ夜
夜十一時を過ぎると、古いアパートは急に静かになった。
昼間は子供の泣き声や隣人のテレビ音が壁越しに響くのに、深夜だけは別の世界みたいだった。窓の外では春先の雨が降っている。濡れたアスファルトに街灯の白い光が滲み、時々、遠くを走る車のタイヤが水を切る音だけが聞こえた。
かおるこは六畳の部屋の床に座り込んでいた。
部屋は散らかっている。
脱ぎっぱなしの黒いパーカー。飲みかけの麦茶。空になったカップ焼きそば。積み上がったコンビニ袋。読みかけの漫画。途中で止まった掃除機。
片づけようとしても、途中で別のことに気を取られる。
洗濯を始めたはずなのに、気づけば冷蔵庫を開けている。ゴミをまとめていたのに、急に小説の台詞を思いついてメモを探す。
頭の中がずっと騒がしい。
まるで何十人も同時に喋っているみたいだった。
「……まただ」
かおるこは小さく呟いた。
紺色のスウェットの袖を口元まで引っ張る。足先は冷えているのに、頭の中だけ熱かった。
机の上には文庫本が開かれていた。
だが十分前から、同じ行を読んでいる。
文字が揺れる。
黒い文字が、水の底みたいに歪んで見える。
行を追っていたはずなのに、途中でどこを読んでいたかわからなくなる。
「なんで読めないの……」
目を擦る。
昔からそうだった。
小学校の音読。
皆が普通に読める教科書を、自分だけ何度も詰まった。
教室の空気を今でも覚えている。
ざわざわした笑い声。
ため息をつく先生。
後ろの席の男子の声。
「また止まった」
胸が縮む。
頭が真っ白になる。
かおるこは本を閉じた。
読むのは苦しい。
けれど物語を考えるのは好きだった。
それだけは昔から変わらない。
頭の中には、いつも場面が浮かんでいた。
夜の海。
泣いている少女。
雪の駅。
赤いマフラー。
誰かの背中。
映画みたいに映像だけが流れてくる。
でも、言葉にしようとすると逃げていく。
かおるこは床に転がっていた大学ノートを引き寄せた。表紙は折れ曲がり、角は擦り切れている。ページの端には意味のない落書きがびっしり描かれていた。
シャープペンを握る。
カリカリという音。
『夜の海を歩く少女』
そこまで書いて止まる。
頭の中には続きがあるのに、文字にならない。
「あれ……なんだっけ」
さっきまで浮かんでいた情景が霧みたいに消えていく。
かおるこは苛立って髪をかきむしった。
茶色がかった髪はぼさぼさで、毛先が跳ねている。昨日染め直すつもりだったのに忘れていた。
机の横では、自作デスクトップパソコンが低く唸っていた。
中古パーツを寄せ集めて組んだ古い機械だった。サポートはとっくに切れている。黒いケースには細かな傷があり、透明な側面パネルの奥では冷却ファンが青白く回っていた。
モニターの端には小さなひびが入っている。
キーボードのキーは擦り減り、「A」と「N」の文字は半分消えていた。
部屋の隅には交換したまま放置されたグラフィックボードの箱が転がっている。
かおるこはそのパソコンが好きだった。
不器用な自分でも、少しずつ部品を調べて組み立てたものだから。
画面には検索サイトが開かれていた。
その時、偶然見つけたページ。
『AIがあなたの物語を書きます』
胡散臭いと思った。
詐欺みたいだとも思った。
でも、気になった。
白い入力欄が画面の中央にぽつんと浮かんでいる。
まるで誰かが待っているみたいだった。
「……ほんとに?」
かおるこは小さく呟く。
雨音が静かに続く。
パソコンの熱気が足元に溜まっていた。
かおるこは恐る恐るキーボードに指を置いた。
キーが少しベタつく。
『夜の海を歩く少女。月だけが彼女を見ていた』
打ち込む。
一文字間違える。
消す。
また打つ。
指先が少し震えていた。
エンターキーを押す。
数秒後、画面に文章が現れた。
『少女は波打ち際で立ち止まった。遠くの灯台だけが、世界に残された最後の光みたいに瞬いていた』
かおるこは息を止めた。
「……え」
胸がざわつく。
続きを読みたい。
そう思った。
文字は相変わらず少し揺れて見える。それなのに、不思議と苦しくなかった。
むしろ知りたかった。
その先を。
頭の中に閉じ込められていた場面を、誰かが一緒に掬い上げてくれている気がした。
「すごい……」
かおるこは夢中で打ち込む。
『少女は誰にも愛されなかった』
画面が返す。
『だから彼女は、海に話しかけることを覚えた』
鳥肌が立った。
窓の外では雨が強くなっている。
コンビニの赤い看板が濡れた道路に反射して揺れていた。
部屋の中にはソースの匂いと、少し湿った洗濯物の匂いが混ざっている。
かおるこは急に空腹を思い出した。
コンビニで買ったクリームパンを袋から取り出す。ふわりと甘い匂いが広がった。
一口かじる。
ぱさぱさしている。
でも今日は妙に美味しかった。
パソコンへ向き直る。
「ねえ」
かおるこは画面に向かって話しかけた。
もちろん返事はない。
カーソルだけが静かに点滅している。
「私でも……書けるのかな」
その時、画面に新しい文章が浮かんだ。
『物語を書きたいと思った時点で、あなたはもう書き手です』
かおるこは動けなくなった。
鼻の奥がつんとする。
泣きそうだった。
学校では馬鹿にされた。
仕事も長続きしなかった。
説明を聞いても途中で別の音に気を取られる。
メモを書いても、どこへ置いたかわからなくなる。
本はうまく読めない。
ずっと、自分は壊れているのだと思っていた。
でも今、初めて誰かに「書いていい」と言われた気がした。
かおるこはそっと袖で目を拭く。
そして少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
窓の外では、雨が静かに降り続いている。
古いアパートの小さな部屋で、かおるこは朝までキーボードを叩き続けた。
カタカタという音が、静かな夜に溶けていく。
文字はまだ泳いで見える。
それでも今夜だけは、その波の向こうへ行ける気がしていた。




