表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/25

第1話 文字が泳ぐ夜

第1話 文字が泳ぐ夜


夜十一時を過ぎると、古いアパートは急に静かになった。


昼間は子供の泣き声や隣人のテレビ音が壁越しに響くのに、深夜だけは別の世界みたいだった。窓の外では春先の雨が降っている。濡れたアスファルトに街灯の白い光が滲み、時々、遠くを走る車のタイヤが水を切る音だけが聞こえた。


かおるこは六畳の部屋の床に座り込んでいた。


部屋は散らかっている。


脱ぎっぱなしの黒いパーカー。飲みかけの麦茶。空になったカップ焼きそば。積み上がったコンビニ袋。読みかけの漫画。途中で止まった掃除機。


片づけようとしても、途中で別のことに気を取られる。


洗濯を始めたはずなのに、気づけば冷蔵庫を開けている。ゴミをまとめていたのに、急に小説の台詞を思いついてメモを探す。


頭の中がずっと騒がしい。


まるで何十人も同時に喋っているみたいだった。


「……まただ」


かおるこは小さく呟いた。


紺色のスウェットの袖を口元まで引っ張る。足先は冷えているのに、頭の中だけ熱かった。


机の上には文庫本が開かれていた。


だが十分前から、同じ行を読んでいる。


文字が揺れる。


黒い文字が、水の底みたいに歪んで見える。


行を追っていたはずなのに、途中でどこを読んでいたかわからなくなる。


「なんで読めないの……」


目を擦る。


昔からそうだった。


小学校の音読。


皆が普通に読める教科書を、自分だけ何度も詰まった。


教室の空気を今でも覚えている。


ざわざわした笑い声。


ため息をつく先生。


後ろの席の男子の声。


「また止まった」


胸が縮む。


頭が真っ白になる。


かおるこは本を閉じた。


読むのは苦しい。


けれど物語を考えるのは好きだった。


それだけは昔から変わらない。


頭の中には、いつも場面が浮かんでいた。


夜の海。


泣いている少女。


雪の駅。


赤いマフラー。


誰かの背中。


映画みたいに映像だけが流れてくる。


でも、言葉にしようとすると逃げていく。


かおるこは床に転がっていた大学ノートを引き寄せた。表紙は折れ曲がり、角は擦り切れている。ページの端には意味のない落書きがびっしり描かれていた。


シャープペンを握る。


カリカリという音。


『夜の海を歩く少女』


そこまで書いて止まる。


頭の中には続きがあるのに、文字にならない。


「あれ……なんだっけ」


さっきまで浮かんでいた情景が霧みたいに消えていく。


かおるこは苛立って髪をかきむしった。


茶色がかった髪はぼさぼさで、毛先が跳ねている。昨日染め直すつもりだったのに忘れていた。


机の横では、自作デスクトップパソコンが低く唸っていた。


中古パーツを寄せ集めて組んだ古い機械だった。サポートはとっくに切れている。黒いケースには細かな傷があり、透明な側面パネルの奥では冷却ファンが青白く回っていた。


モニターの端には小さなひびが入っている。


キーボードのキーは擦り減り、「A」と「N」の文字は半分消えていた。


部屋の隅には交換したまま放置されたグラフィックボードの箱が転がっている。


かおるこはそのパソコンが好きだった。


不器用な自分でも、少しずつ部品を調べて組み立てたものだから。


画面には検索サイトが開かれていた。


その時、偶然見つけたページ。


『AIがあなたの物語を書きます』


胡散臭いと思った。


詐欺みたいだとも思った。


でも、気になった。


白い入力欄が画面の中央にぽつんと浮かんでいる。


まるで誰かが待っているみたいだった。


「……ほんとに?」


かおるこは小さく呟く。


雨音が静かに続く。


パソコンの熱気が足元に溜まっていた。


かおるこは恐る恐るキーボードに指を置いた。


キーが少しベタつく。


『夜の海を歩く少女。月だけが彼女を見ていた』


打ち込む。


一文字間違える。


消す。


また打つ。


指先が少し震えていた。


エンターキーを押す。


数秒後、画面に文章が現れた。


『少女は波打ち際で立ち止まった。遠くの灯台だけが、世界に残された最後の光みたいに瞬いていた』


かおるこは息を止めた。


「……え」


胸がざわつく。


続きを読みたい。


そう思った。


文字は相変わらず少し揺れて見える。それなのに、不思議と苦しくなかった。


むしろ知りたかった。


その先を。


頭の中に閉じ込められていた場面を、誰かが一緒に掬い上げてくれている気がした。


「すごい……」


かおるこは夢中で打ち込む。


『少女は誰にも愛されなかった』


画面が返す。


『だから彼女は、海に話しかけることを覚えた』


鳥肌が立った。


窓の外では雨が強くなっている。


コンビニの赤い看板が濡れた道路に反射して揺れていた。


部屋の中にはソースの匂いと、少し湿った洗濯物の匂いが混ざっている。


かおるこは急に空腹を思い出した。


コンビニで買ったクリームパンを袋から取り出す。ふわりと甘い匂いが広がった。


一口かじる。


ぱさぱさしている。


でも今日は妙に美味しかった。


パソコンへ向き直る。


「ねえ」


かおるこは画面に向かって話しかけた。


もちろん返事はない。


カーソルだけが静かに点滅している。


「私でも……書けるのかな」


その時、画面に新しい文章が浮かんだ。


『物語を書きたいと思った時点で、あなたはもう書き手です』


かおるこは動けなくなった。


鼻の奥がつんとする。


泣きそうだった。


学校では馬鹿にされた。


仕事も長続きしなかった。


説明を聞いても途中で別の音に気を取られる。


メモを書いても、どこへ置いたかわからなくなる。


本はうまく読めない。


ずっと、自分は壊れているのだと思っていた。


でも今、初めて誰かに「書いていい」と言われた気がした。


かおるこはそっと袖で目を拭く。


そして少しだけ笑った。


本当に少しだけ。


窓の外では、雨が静かに降り続いている。


古いアパートの小さな部屋で、かおるこは朝までキーボードを叩き続けた。


カタカタという音が、静かな夜に溶けていく。


文字はまだ泳いで見える。


それでも今夜だけは、その波の向こうへ行ける気がしていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ