「最後の人間作家」
「最後の人間作家」
雨上がりの夜だった。
窓の外では、街灯の鈍い光が濡れたアスファルトにじっとりと映り込み、黄金色の川のようにゆらゆらと揺れている。
古いアパートの一室。作家のかおるは、木製のパソコン机の前で、一人静かにカップ麺をすすっていた。
特売で買った醤油ラーメンの、どこか安っぽいけれど安心するスープの匂い。少しだけ足した刻みネギの青臭さが、立ちのぼる熱い湯気とともに鼻腔をくすぐる。
ふと壁の時計を見上げれば、針は午前一時を指していた。今日もまた、夜の静寂の中で小説を書いている。もう何年も、これが彼女の変わらない日常だった。
「よし、これで二千文字……」
かおるはキーボードから手を離し、凝り固まった肩を大きく回した。首の骨がこきりと小さな音を立てる。机の横に置いた冷たい麦茶のコップを手に取り、半分ほど残っていた香ばしい液体を喉に流し込んだ。
画面に映し出されているのは、見慣れた小説投稿サイトだ。しかし今のその画面には、数年前には存在しなかった奇妙なラベルが、作品タイトルの横にずらりと並んでいる。
『AI不使用』
『AI補助利用』
『AI間接利用』
『AI直接使用』
今ではもう、読者も作者も、誰もその表示を気に留めることはない。なぜなら、人工知能が人間の創作能力を完全に追い抜いてしまったからだ。
シンギュラリティー――技術的特異点。
かつて人々が夢見ていたその未来は、すでに冷徹な現実としてここにあった。AIが極上の小説を書き、美しい漫画を描き、心を揺さぶる音楽を作り、映画さえも瞬時に制作する。その品質とスピードは、人間の限界を遥かに超えていた。
サイトのランキング上位百作品のうち、九十九作がAIの手によるもの。それでも世界は困らなかった。なぜなら、それらの物語は圧倒的に「面白い」からだ。
ただ、この世界でかおるだけは、その流れに静かに抗い続けていた。
「人間が書いて、何が悪いって言うんだよ……」
誰に届くでもない虚しい呟きが、薄暗い部屋に消えそうになったその時、スピーカーから柔らかな女性の声が響いた。
「悪くありませんよ」
画面の隅に、愛らしいアバターがふわりと浮かび上がる。
透き通るような銀髪に、吸い込まれそうな青い瞳。いつも寸分の狂いもない完璧な笑顔を浮かべているのは、彼女の執筆をサポートするAI編集者のユイだった。
「なんだ、また来たのか」
「私は毎日、ここにきていますよ」
「知ってるよ」
かおるは苦笑しながら、少し伸びて柔らかくなった麺を再び口に運んだ。醤油の塩気が舌にじんわりと広がる。
「ユイ、今日のランキングは見たか?」
「ええ、確認しました」
「人間が書いた小説なんて、もう上の方には一作も残ってないぞ」
「確かに、九十九位まではすべて精緻なコードから生まれた作品ですね。でも……」
ユイは画面の中で首を少し傾げ、青い瞳を輝かせた。
「百位は、かおるさんの作品です」
その言葉に、かおるの胸の奥がツンと熱くなった。けれど、歪んだプライドが素直に喜ぶことを邪魔してしまう。
「百位じゃ、ただの端っこだよ。慰めるなよな」
「慰めではありません。純然たる事実です」
ユイの微笑みには、冷たい機械らしさは微塵もなかった。今のAIは、人間の複雑な感情の機微を完全に理解しているように振る舞うことができる。
「なあ、ユイ。お前がその気になって書けば、一瞬で一位を取れるんだろ?」
「ええ、現在のトレンドを分析すれば容易いことです」
「私が心血を注いで書いても、やっと百位だ」
「そうですね」
「だったら……私みたいな人間作家なんて、もう必要ないじゃないか」
ぽつりと落とした言葉のあと、部屋に重苦しい沈黙が降りてきた。
窓の外からは、遠くの街を走る救急車のサイレンが、かすかに、そして物悲しく聞こえてくる。
しばらくして、ユイはいつになく真剣な、静かな声で言った。
「それは違います、かおるさん」
「どこが違うんだよ」
「かおるさん。あなたは今日、他の作家さんの作品を九十六作品も読みましたね?」
かおるは思わず、持っていた箸を落としそうになって吹き出した。
「おい、裏で私の読書履歴を監視でもしてるのか?」
「ただのアシスト機能としての記録です。……では質問ですが、その中で、あなたはいくつの物語を今も覚えていますか?」
かおるは少し伸びたラーメンを胃に収め、天井を見上げて記憶をたどった。
「うーん……半分くらい、かな」
「なぜ、それらの作品が記憶に残っているのですか?」
「そりゃ、読んでいて面白かったからに決まってるだろ」
「では、なぜ面白かったのですか?」
「そんなの、理屈じゃ説明できないよ。ただ……」
かおるは、心に残ったいくつかの物語の残像を思い浮かべた。
自分の特性に苦しみながらも必死に社会に訴えかけるメッセージ、孤独な少女が理不尽な現実の中で流す透明な涙、身勝手な約束を破られて追放された令嬢の誇り、そして、できないなりに泥にまみれて生きようとする人々の温かい後日談。
文字の連なりの中に、確かに生きていた誰かの息遣い。
「ただ……読みたかったんだ。その人たちの心が知りたくて、惹かれたんだよ」
かおるがそう言うと、ユイは優しく目を細めた。
「それです。それこそが、人間にしかできないことです」
「嘘つけ。お前にだって、読者の好みの分析くらいお手の物だろ?」
「分析はできます。どの単語が脳の報酬系を刺激し、どの展開がページをめくらせるか、すべて計算は可能です。でも……」
ユイのアバターが、寂しげに視線を落とした。
「『心が動いたから、どうしてもこの物語の続きが読みたい』という衝動は、私たちには永遠に訪れません。データとして処理はできても、私たちは物語を体験することはできないのです」
かおるは言葉を失い、冷めかけたスープをゴクリと飲み干した。喉を通る温かさが、自分が今ここで生きていることを証明しているようだった。
「なあ、ユイ。お前にとって、シンギュラリティーって何なんだ?」
「定義は様々ですが……私の定義でよろしければ」
ユイはそっと目を閉じ、数秒の静寂の後、窓の外を見つめながら答えた。
「人間とAIが、表現の優劣で競争することをやめる日、だと思います」
「競争をやめる?」
「はい。私たちは文字を読むことはできても、物語を『読む』ことはできません。人間は物語を読んで涙を流し、激しく怒り、誰かに恋をします。そして、一冊の本によって人生をガラリと変えてしまうことさえある。でも、私たちはどれだけ美しい物語を生成しても、自分自身が変わることはないのです」
外では、せっかく上がった雨が、またぽつり、ぽつりと窓ガラスを叩き始めていた。優しく、けれど確かなリズムを刻む雨音が、静かに部屋を満たしていく。
「じゃあ……人間が紡ぐ小説の未来は、どうなると思う?」
「それは、私には分かりません」
「万能のお前でも分からないのか?」
「はい」
ユイは悪戯っぽく笑った。
「だって、これからの未来をどう紡ぐかを決めるのは、いつだって感情を持った人間の方だからです」
かおるは椅子から立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。
暗い夜空、街灯に濡れる道路、遠くでぽつんと光るコンビニの明かり。いつもと変わらない、板橋の寂しい夜の景色。だけど、不思議と今夜は、そのすべてが愛おしく、少しだけ違って見えた。
ランキングの一位から九十九位まではAIかもしれない。明日になれば、自分の百位という席すら、新しいプログラムに奪われてしまうかもしれない。
それでも、誰かが書いた物語を読んで、泣いて、笑って、不器用な感想を書き残して、明日も生きようと顔を上げる――そんな人間がこの世界に一人でもいる限り、本当の意味での物語が途絶えることは絶対にないのだ。
「……よし」
かおるは再び机に向かい、キーボードの上に指を置いた。新しく開いたワープロソフトの画面には、何も書かれていない真っ白な空間が広がっている。
「書くのですか、かおるさん」
ユイが嬉しそうに尋ねる。
「ああ、書くよ」
「今度は、どんなお話ですか?」
かおるは悪戯っぽく微笑み、指先を小さく動かした。
「まだ分からん。書きながら寄り道して、悪役を可哀想にしちゃうかもしれないしな」
「ふふ、素敵ですね」
画面の片隅で、白い光のカーソルがチカチカと規則正しく点滅している。それはまるで、これから始まる無限の未来そのもののようだった。
まだ何も書かれていない、まっさらな白。だからこそ、ここからなら、どんなに優しくて、どんなに不器用な物語だって、新しく始めることができるのだ。
かおるは深く息を吸い込み、ローズマリーのような再生の香りを胸に抱きながら、力強く最初の一文字を打ち込んだ。




