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AI小説家かおるこの涙

AI小説家かおるこの涙


 六月の蒸し暑い夕方だった。


 窓の外では雨が降りそうな灰色の雲が空を覆い、古いアパートの屋根を風が鳴らしている。


 かおるこは木製の机の前に座り、冷めかけた麦茶の入ったコップを握りしめていた。


 薄い水色のブラウスに、何度も洗ったベージュのスカート。


 お気に入りの服だったが、今日は少しも気分が上がらない。


 パソコンの画面には、小説投稿サイトから発表された新しいAIガイドライン。


 文字。


 文字。


 文字。


 どこまでも続く文字。


 かおるこの目には、それがまるで黒い虫の群れのように見えた。


「無理……」


 小さくつぶやく。


「こんなの読めない……」


 胸がぎゅっと締めつけられた。


 識字障害。


 昔からだった。


 文章を読むのは、人より何倍も時間がかかる。


 短い文章なら大丈夫。


 でも長文になると文字が模様のように見えてくる。


 読んでいるうちに最初の内容を忘れる。


 何度も同じ行を読んでしまう。


 かおるこは頭を抱えた。


「私、どうしたらいいの……」


 目の奥が熱くなる。


 せっかく毎日書いてきた。


 何年も。


 何十万文字も。


 夜中まで起きて。


 泣きながら。


 笑いながら。


 登場人物たちと一緒に生きてきた。


 それなのに。


「AI利用状況を設定してください」


 たったその一文が、巨大な壁のように見えた。


 コンコン。


 玄関の戸が叩かれた。


「かおるこー?」


 聞き慣れた声だった。


 近所に住む友人の真由だ。


「いるー?」


「いる……」


 力なく返事をする。


 真由は買い物帰りらしく、トマトや豆腐の入ったエコバッグを持っていた。


 白いTシャツにジーンズというラフな格好だ。


「どうしたの?」


「終わった……」


「何が?」


「私の小説人生……」


 真由は吹き出した。


「また大げさな」


「大げさじゃないもん!」


 かおるこの声が震える。


「読めないの!」


「何が?」


「規約!」


 真由はパソコンを覗き込んだ。


「ああ、これか」


「文字が多すぎる……」


「確かに多いね」


「私、理解できない」


「ふむふむ」


 真由は椅子を引き寄せた。


 そして数分ほど画面を見つめる。


 かおるこは不安そうに待った。


 外では雨が降り始めている。


 ぽつり。


 ぽつり。


 やがて本降りになった。


 雨音だけが部屋を満たす。


 真由はやがて振り返った。


「簡単に言うね」


「うん……」


「AIに書いてもらった文章をそのまま貼る人は『AI直接使用』」


「うん」


「AIの文章を材料にして、自分で大きく書き直した人は『AI間接利用』」


「うん」


「アイデア相談や誤字チェックだけなら『AI補助的利用』」


「うん」


「AIを全然使ってなければ『AI不使用』」


 かおるこは目をぱちぱちした。


「それだけ?」


「だいたいそれだけ」


「えっ」


「長い文章だけど、要するにそれ」


 かおるこは拍子抜けした。


 胸を押さえる。


「そうなの?」


「そう」


「本当に?」


「本当に」


 かおるこはしばらく黙った。


 それから恐る恐る聞く。


「私の場合は?」


「どういう書き方してるの?」


「プロット考える」


「うん」


「登場人物考える」


「うん」


「AIに相談する」


「うん」


「文章を出してもらう」


「うん」


「直す」


「どのくらい?」


「いっぱい」


「どのくらい?」


「名前変える」


「うん」


「会話変える」


「うん」


「展開変える」


「うん」


「削る」


「うん」


「足す」


「うん」


「直す」


「うん」


「また直す」


「うん」


「また直す」


 真由は笑った。


「それなら『AI間接利用』が近いんじゃない?」


「そうなの?」


「少なくとも話を聞く限りはね」


 かおるこの肩から少し力が抜けた。


 台所でお湯を沸かす。


 夕飯は簡単なものにした。


 炊きたてのご飯。


 豆腐の味噌汁。


 焼いた鮭。


 きゅうりの浅漬け。


 湯気が立ち上る。


 味噌の香りが鼻をくすぐった。


「おいしい……」


「人間はね」


 真由が笑う。


「不安な時ほどご飯食べなきゃだめ」


「そうかも」


 鮭をひと口食べる。


 塩気が舌に広がった。


 不思議と少しだけ元気が出た。


 窓ガラスを雨粒が流れていく。


 かおるこはその雨を見つめた。


「ねえ」


「なに?」


「私ね」


「うん」


「怖かった」


「そうだろうね」


「全部否定された気がした」


 真由は首を振った。


「違うと思うよ」


「え?」


「これは誰がどんなふうにAIを使ったかを説明するための表示でしょ」


「うん」


「作品の価値を決める表示じゃない」


 かおるこは黙った。


 心の奥で何かが少し動く。


「読者が泣いたか」


 真由は続けた。


「読者が笑ったか」


「うん」


「読者が明日も生きようと思ったか」


「うん」


「それはAI表示じゃ決まらない」


 かおるこの目に涙が浮かんだ。


 ぽろりと一粒落ちる。


「私、まだ書いていいのかな」


 真由は即答した。


「書きなよ」


「でも……」


「書かなかったら後悔するでしょ?」


 その言葉に胸が痛んだ。


 かおるこは知っていた。


 書かない自分を想像したことがある。


 苦しかった。


 寂しかった。


 何より、自分じゃない気がした。


 だから。


 ゆっくりと頷く。


「うん」


「うん」


「書く」


「それでいい」


 雨音が少し優しく聞こえた。


 パソコンの画面には、まだ長いガイドラインが表示されている。


 けれど先ほどまでの怪物には見えなかった。


 難しい。


 わからない部分もある。


 それでも。


 一つだけ確かなことがある。


 かおるこは小説を書く人だ。


 不安になっても。


 迷っても。


 泣いても。


 また次の一行を書き始める人だ。


 机の上のキーボードに指を置く。


 そして新しい原稿を開いた。


 白い画面が広がる。


 その白さは恐怖ではなかった。


 まだ見ぬ物語が眠る、希望の色だった。


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