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マナの味

マナの味


 鍋いっぱいの味噌汁が、ことことと音を立てていた。


 大根。人参。牛蒡。えのき。しめじ。長ねぎ。


 味噌の匂いが、古い台所いっぱいに広がっている。


 五月のの終わりだった。


 窓ガラスは白く曇り、アルミサッシの隙間から冷たい風が細く入り込む。換気扇は油で少し茶色くなっていて、ぶうん、ぶうん、と低い音を立てて回っていた。


 かおるこは灰色のスウェットの袖を少し折り、木べらで鍋を混ぜた。


「……また作りすぎた」


 ひとりごとの声が、小さな台所に落ちる。


 本当は好きなのだ。


 具沢山味噌汁。


 大好きだった。


 牛蒡の土っぽい匂いも、くたくたに煮えた大根の甘さも、しめじのぷりっとした歯触りも好きだった。


 だけど。


 好きと、毎日食べられるは、違う。


 それが説明できない。


 昨日も味噌汁。


 今日も味噌汁。


 明日も味噌汁。


 鍋は減らない。


 冷蔵庫に入れて、また火を通す。


 また火を通す。


 また火を通す。


 そのうち、大根は半透明から茶黒く変わり、人参は輪郭を失い、えのきは溶けた髪の毛みたいになる。


 味は悪くない。


 腐ってもいない。


 なのに。


 喉が拒否する。


 口に入れた瞬間、胸の奥がぎゅっと縮む。


「……う……」


 かおるこは茶碗を持ったまま止まった。


 湯気が眼鏡を白く曇らせる。


 味噌の塩気。


 煮えた牛蒡の匂い。


 何度も温め直された野菜の、少し疲れた甘み。


 全部わかる。


 わかるのに、飲み込めない。


「ごめんなさい……」


 誰に謝っているのか、自分でもわからなかった。


 食べ物にか。


 神様にか。


 自分の体にか。


 六畳一間の部屋は静かだった。


 古い石油ストーブの上では、やかんが時々かたん、と鳴る。


 机の上には開きっぱなしの聖書。


 付箋だらけの民数記。


 かおるこはふらふらと座布団へ座り込み、ページをめくった。


『それなのに今,わたしたちの魂は干上がってしまった。目にするものといえばただマナばかりだ』


 そこを指でなぞる。


 昔、集会で読んだ時は思った。


 なんて感謝のない人たちなんだろう、と。


 天から奇跡の食べ物が降ってくるのに。


 飢え死にしないのに。


 なのに文句を言うなんて。


 でも今は。


「……飽きるよね」


 ぽつりと呟いた。


 その瞬間、自分でびっくりした。


 罪深いことを言った気がした。


 けれど胸のどこかが、少しだけ楽になった。


 人は、飽きる。


 どれほどありがたいものでも。


 どれほど奇跡でも。


 毎日続けば、心は痩せる。


 かおるこは膝を抱えた。


 ストーブの熱で頬が熱い。


 でも足先は冷たい。


「感謝が足りないのかな……」


 そう呟いた時、部屋のチャイムが鳴った。


 ぴんぽーん。


「はい……」


 ドアを開けると、二階に住むあられちゃんみたいな女の子が立っていた。


 丸い眼鏡。


 黄色いニット。


 大きなスケッチブックを抱えている。


「こんばんはー。なんか、めっちゃいい匂いしてたから」


「……味噌汁」


「わー、いいなあ」


 彼女は鼻をひくひくさせた。


「具沢山?」


「うん……でも黒くなってきた」


「黒く?」


「何回も火入れてるから……」


 彼女は鍋を覗き込んで、笑った。


「あー、わかる。煮込みすぎ選手権」


 かおるこも少し笑う。


 久しぶりに、ちゃんと笑った気がした。


「食べる?」


「え、いいの?」


「うん……助かる」


 二人で小さなちゃぶ台を囲む。


 味噌汁。


 焼いただけの塩鮭。


 冷たい麦茶。


 スーパーで安かったきゅうりの浅漬け。


 あられちゃんは湯気で赤くなった鼻のまま、


「いただきます!」


と言った。


 一口飲む。


「あ、おいしい」


「ほんと?」


「うん。牛蒡めっちゃ出汁出てる」


 かおるこも恐る恐る飲んだ。


 さっきより少しだけ飲めた。


 不思議だった。


「ひとりだと、食べられない時あるんだよね」


 あられちゃんが言う。


「同じもの続くと、急に『もう無理』ってなる」


「……そう」


「でも別に、わがままじゃないと思う」


 その言葉に、かおるこは黙った。


 ストーブの上のやかんが、しゅう、と細く鳴る。


「生き物だもん」


 あられちゃんは味噌汁をふうふう冷ました。


「毎日同じだと、心が飢える時あるよ」


 窓の外では風が鳴っていた。


 遠くで電車の走る音。


 誰かの笑い声。


 夜の匂い。


 かおるこは、また聖書を見た。


 マナ。


 天から降る食べ物。


 奇跡。


 でも人は、それだけでは駄目だった。


 魚を思い出す。


 にんにくを思い出す。


 玉ねぎを思い出す。


 変化を欲しがる。


 それは罪なのだろうか。


 かおるこには、もう少しわからなかった。


 けれど。


「……ごめんなさい、って言わなくてもいいのかな」


 そう呟くと、あられちゃんは首を傾げた。


「味噌汁に?」


「うん……」


「いいんじゃない? また違うの食べたくなったら食べれば」


 あっけらかんとしていた。


 その軽さが、少し救いだった。


 かおるこは、黒くなりかけた大根を箸で割った。


 湯気が立つ。


 柔らかい。


 じゅわっと味噌の味が染みている。


 さっきまで苦痛だったのに。


 今は少しだけ、美味しかった。


 誰かと食べるだけで、こんなに違うのかと思った。


 窓の外に、白い月が浮かんでいた。


 まるで荒野の夜みたいだ、とかおるこは思った。


 もしあの時。


 マナを囲んで笑える誰かがいたなら。


 イスラエルの民も、少し違ったのだろうか。


 そんなことを考えながら、かおるこは湯気の向こうで小さく笑った。



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