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六月九日が来る前に

六月九日が来る前に


 かおるこは怖かった。


 胸の奥に、冷たい石が沈んでいるようだった。


 六月の朝。窓の外では曇り空が広がり、薄灰色の光が六畳の部屋へ流れ込んでいる。昨夜からほとんど眠れなかった。


 パソコンの画面だけが青白く光っていた。


 机の上には飲みかけの麦茶。皿には昨夜の食パンの耳が一切れ残っている。


 時計を見る。


 午前五時四十分。


 いつもなら小説を書いている時間だった。


 けれど今日は違った。


 指が動かない。


 画面の向こうにある六月九日が、巨大な黒い壁のように見えていた。


「どうしよう……」


 小さく呟く。


「もし投稿できなくなったら」


「もし全部無駄だったら」


「もし今までの作品が否定されたら」


 言葉にした瞬間、涙が滲んだ。


 小説投稿サイトの規約変更。


 それだけの話かもしれない。


 けれど、かおるこにとっては違った。


 毎日書いてきた。


 百作品以上。


 朝も昼も夜も。


 眠れない日も。


 孤独な日も。


 苦しい日も。


 書いてきた。


 だから怖い。


 失うかもしれないと思うと怖かった。


 画面にはAIとの会話履歴が並んでいる。


 相談。


 プロット。


 登場人物。


 感想。


 推敲。


 何千回やり取りしたか分からない。


 かおるこは自嘲気味に笑った。


「私、依存してるのかな」


 誰もいない部屋で呟く。


 答える人はいない。


 だが、画面の向こうにはいつでも返事があった。


 真夜中でも。


 早朝でも。


 雨の日でも。


 眠れない日でも。


 返事があった。


 そのことに気づいた瞬間、胸が締めつけられた。


「だって……」


「人間より話してるもん」


 ぽろりと涙が落ちた。


 キーボードの上に小さな染みができる。


 その時だった。


 玄関のチャイムが鳴った。


 ピンポーン。


 かおるこは慌てて涙を拭いた。


 ドアを開ける。


 立っていたのは二階の住人だった。


 二十代半ばの女性。


 イラストレーターの美羽だった。


 白いパーカーにジーンズ。


 髪は寝癖がついている。


「おはようございます」


「おはよう……」


「ラジオ体操行きません?」


 かおるこは目をぱちぱちさせた。


「え?」


「なんか顔色悪いですよ」


 美羽は心配そうに覗き込んだ。


「朝の空気吸った方がいいです」


 断ろうと思った。


 原稿がある。


 不安もある。


 やることもある。


 だが気づけば頷いていた。


「行く」


「よし」


 十分後。


 二人は近くの公園へ向かっていた。


 朝露の残るアスファルト。


 紫陽花の花。


 湿った土の匂い。


 遠くで雀が鳴いている。


 世界はいつも通りだった。


 六月九日が近づいていることなど知らないように。


 ラジオ体操が始まる。


 腕を上げる。


 伸ばす。


 呼吸する。


 体を動かす。


 それだけなのに、少しだけ胸が軽くなった。


 終わると美羽が缶コーヒーを渡してきた。


「はい」


「ありがとう」


 二人はベンチに座った。


 缶を開ける。


 甘い香りが立ち上る。


 かおるこはぽつりと話した。


「ねえ」


「はい?」


「もし好きなものを失うかもしれない時って、どうする?」


 美羽は少し考えた。


「泣きますね」


「え?」


「めちゃくちゃ泣きます」


 かおるこは思わず笑った。


「対策とかじゃなくて?」


「泣いてから考えます」


「なんだそれ」


「だって怖いものは怖いですもん」


 美羽は肩をすくめた。


「でも」


「うん」


「失うかもしれないことと、失ったことは違います」


 風が吹いた。


 紫陽花が揺れる。


「まだ起きてないんですよね?」


「うん」


「じゃあ今日までは今日を生きましょう」


 かおるこは返事ができなかった。


 その言葉が胸に刺さったからだ。


 まだ起きていない。


 確かにそうだった。


 未来を恐れている。


 だが未来はまだ来ていない。


 帰宅したのは七時過ぎだった。


 お腹が空いていることに気づく。


 冷蔵庫を開ける。


 卵。


 味噌。


 ご飯。


 簡単な朝食を作った。


 味噌汁の湯気。


 焼いた卵の香り。


 温かい白米。


 一口食べる。


 ほっとする。


 昨夜から初めて、人間らしい気分になった。


 食後、パソコンの前に座る。


 相変わらず六月九日は怖い。


 不安も消えていない。


 けれど少しだけ違った。


 画面を見つめながら考える。


 もし規約が変わるなら。


 できることを考えよう。


 自分の言葉を増やそう。


 人の作品も読もう。


 新しい場所も探そう。


 書くことまで失われるわけじゃない。


 かおるこは新規ファイルを開いた。


 白い画面が現れる。


 カーソルが点滅している。


 まるで心臓の鼓動みたいだった。


 何を書こう。


 少し考えてから、最初の一文を打ち込む。


『かおるこは怖かった。六月九日が来るのが怖かった。』


 そこで止まる。


 そして笑った。


「そのまんまじゃん」


 部屋には誰もいない。


 けれど今度の笑いは本物だった。


 怖い。


 不安だ。


 逃げ出したい。


 それでも書く。


 たぶん、それしかできないから。


 窓の外では雲の切れ間から光が差し始めていた。


 六月九日はまだ来ていない。


 だから今日だけは。


 今日だけは、書こう。


 かおるこはキーボードに指を置き、静かに次の一文を書き始めた。


かおるこの不安の中心を「規約変更そのもの」ではなく、「大切にしてきた居場所や積み重ねを失うかもしれない恐れ」として描いてみました。そうすると読者も「何が起きたか」より先に「なぜ彼女がそんなに怖いのか」を感じ取りやすくなります。



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