咲かない花
第114回参加作品
お題:壊れたオルゴール、咲かない花、虚無感
「おねえさん、これはどんな花が咲くの?」
「この花は一度も咲いたことが無いの。ずっとつぼみのまま」
「つぼみのまま?」
「そう。どうしてかわからないけれど、咲かないまま枯れてしまうの。毎年、毎年……」
小さかった頃、お隣の研究者のお姉さんに連れてきてもらった研究温室で、僕はその花に出会った。
チューリップのような葉をつけ、ヒマワリのように背を高く伸ばし、バラのように固くつぼみを結ぶ。しかし、それが一体なんという名の植物で、どんな花を咲かせるのか、誰も知らなかった。
不思議な花、未知への好奇心。僕の心はその花にとらわれていた。
「もし咲かせられたら、すごい? 僕、やってみたい!」
「そうね。でも、今までずーっと、たくさんの人で頑張って来て、誰もできなかったことなのよ。ゆう君に出来るかな?」
「出来るよ! 僕が大人になって、おじいちゃんになるころにはきっと!」
僕は強く強く答えた。お姉さんはただただ苦笑いしていた。きっと本気だと思わなかったんだろう。どうせ、子どもの思い付きだ、意地っ張りだって。
でも、それから僕は本当に植物学者になった。時には学校も休んで野山に入りびたっていろんな草花を見て、図書館の植物の本は全部片っ端から──趣味の園芸から、図鑑から、民俗学まで──読みあさった。あちこちの大学の先生にも手紙を送ったし、一生懸命アルバイトをして、自宅に小さな温室も建てた。もちろん、あの花がある研究所の温室には、月に一度は足を運んでいた。……本当は機密とか色々あるけれど、熱心が過ぎたから、特別に。
小学生、中学生、高校生、大学生、あっという間だった。植物のこと以外には何もしていない、それなのに全然時間が足りない、そう思った。結局あの花も、これまで一度も咲かないまま。
そして僕は本物の学者になって、あの花ある研究所に赴任が決まった。お姉さんがお母さんになって遠くへ引っ越すというから、その入れ替わりとして。
「ゆう君、ほんとにお花咲かせるの?」
「はい。僕が死ぬまでには絶対に。僕はそのために生きてきましたから」
「そう……頑張ってね。できたら、すごいことだよ」
「はい、僕もそう思います」
僕は本気だった。お姉さんは相変わらず苦笑いをしていたけど。
それから僕は毎日あの花と向き合った。チューリップのような葉は一年中残っていて、初夏になるとヒマワリのように高く背を伸ばし、晩夏に出来たバラのようなつぼみは秋の間ずっと結ばれたまま。そして、冬になるとぽとりと枯れて落ちる。温室の中なのに、四季を知っているかのようなふるまいだ。
咲かない花はなぜ咲かないのか。土が悪いのか、温度が合っていないのか。水のやり方か、それとも遺伝子的に問題があるのか。僕はあらゆる角度から手を尽くした。なかなか目立った成果は出ない、でも、少しずつ進歩はしていたのだと思う。一年、五年、十年、二十年──時が経つほどに、つぼみは大きく膨らむようになり、緑色のまま閉ざされていた花弁が、うっすらと色づくようになったのだ。
「先生、虹色が! もうすぐ咲くんじゃないですか!?」
「ああ……でも、もう冬だ。今年も咲かないで終わるだろう」
「そんなあ」
「だけど死ぬまでには、きっと咲くさ」
固く結ばれたままの虹色のつぼみを見上げながらそう言った冬は、僕が初めてこの花に出会ってから、六十年近く経っていた。いつの間にか僕はおじいちゃんになっていた。
だが、僕の心はこの花に出会ったあの日から、何一つ変わっていないかった。
次の年の秋だった。海外の研究者が送ってくれた数多の植物の遺伝子サンプルと向き合っていたら、助手が血相を変えて飛び込んできた。
「せっ、先生! あの花が、あの花が開きそうです!」
僕は全てのものを放り出して温室に走った。
助手の言った通りだ。虹色のつぼみは、朝見たときよりも大きく膨らんでいる。閉ざされていた花弁が、静かな音を立てて剥がれるように開かれていく。ゆっくりと、ゆっくりと。
いよいよ、その時だ。十月十六日、十一時六分──。
誰も見たことが無い花が、誰も咲かせたことのない花が、確かに咲いた。
「先生、先生!」
「やりましたよ先生、ついに、咲いたんです……!」
「やっと……この花のために……先生、良かったですねえ」
研究所の全員が出てきて、僕を祝福する。揺さぶられ、肩を叩かれ、抱きしめられ。
しかし、僕には遠いことのようだった。僕の目はあの花だけを見ていた。
開いた花は白菊のようだった。虹色のつぼみの裏にあった花びらは、どんな花よりも美しく輝かしい白だった。
美しかった、涙が流れて来た、見れて良かった、お姉さんにもみせてやりたい、いろんな気持ちがある。
しかし、どんな感情よりも強く僕を襲ったのは耐え難い虚無感だった。
咲かない花を咲かせてしまった、僕が人生をかけて来た花が咲いてしまった。
だったら、僕は残された人生を、なんのために使えばいい?
頭は真っ白だった、その花のように。そして、僕は倒れた。
退院したのは冬に片足を踏み入れた頃だった。一気に老け込んだ僕は、足腰もまともに立たず、杖をついてふらふらと歩くことしかできなかった。目もしょぼしょぼするし、耳も遠い。
そして何より、僕はなんのために生きているのだろうか。その虚無が、何より苦しかった。
僕がやることは一つしかない。あの花に会いに行くこと。今までずっとそうしてきた、それしかなかった。
なかなか不思議ではあるが、僕が研究所に戻ってきた時も、あの花はまだ咲いたままだった。白菊のような美しい姿を僕に見せてくれた。もう、冬だというのに。
「なあ、僕はこれからどうしたらいい」
僕は花を見上げて問いかけた。もちろん植物から答えが返ってくるとは思わなかった。それでも、そうせずにはいられなかった。僕の人生の伴侶なのだから。
すると、花は花弁を落とした。冬だから、眠りにつき始めたのだろう。
はらはらと雪が舞い散るように、裏に虹をたたえた白い花弁が次々落ちていく。僕の人生が散っていく、あっけない。
「寂しいですね……」
僕を支えてくれていた助手が呟いた。
その時だ。金属を弾いたような軽く綺麗な響きが、温室の中に通った。
一体何が。僕は目が覚める思いだった。いや、何となくわかっていたのだ。
花だ。あの花の花びらが、地面に落ちた瞬間、透き通った美しい音を鳴らしている。
次々と降りしきる音。それはまるで壊れたオルゴールのように、不定律ながらも魅惑的な音曲を奏でた。
その音が僕の脳に響くたび、僕の空っぽだった心に何かが入ってきた。
やがて全ての花が落ち、ゆっくりと茎が倒れた。何年も見て来た、冬の前のこの花の様子だ。毎年悔しい思いをして眺めて来たものである。
しかし、今の僕は不思議と満ちたりた思いだった。この花が咲いたときより、もっとずっと。僕は涙を流していた。
助手が、花びらを一枚拾って来た。
「先生、どうしてあんな音がしたんですかね」
「さあな」
「調べたら、わかりますかね」
「……わかるさ。僕が生きているうちに、必ず」
僕は泣きながら笑った。
──どうして咲かないんだろう。そう思ったその日から、僕の人生は始まった。そして今、もう一度始まったのである。
僕の足は軽くなっていたし、目も昔みたいに見えるようになっていた、耳もよく聞こえる。
僕の人生はまだまだ終わらない。この花がくれた、この人生は。




