第29話:美しい怪物
「……ア、アアアアアッ!!」
ナディアが、獣のような悲鳴を上げた。
かつてエカテリーナがグラファイトの教会へ預けた時、彼女の肌は透明感を取り戻していたはずだった。しかし今、目の前に立つ彼女は、以前にも増して土色に汚れ、瞳からは一切の知性が失われている。
「……エカテリーナ様、様子が変です。以前の彼女ではありません。これはおそらく、魔法と薬物による強制的な人格破壊です」
アンが冷徹に、しかし怒りを孕んだ声で告げる。
マリアは、エカテリーナが救ったナディアを再び捕らえ、短期間で「使い捨ての爆弾」へと作り変えたのだ。そこに人間としてのナディアはもう存在しない。
「……マリア。人の尊厳だけでなく、わたくしが一度施した慈悲までも汚すとは、万死に値しますわ」
エカテリーナの周囲の温度が、怒りで氷点下まで下がる。
ナディアが、皮膚を裂きながら肥大化した右腕を振り下ろす。その速度は以前対峙したときよりはるかに速い。だが、今の三人に迷いはない。
雷牙はその剛腕を正面から受け止めず、地面へ受け流した。ナディアの拳が地面に埋まり、動きが止まった。その隙をシオンが逃さず体中の関節の継ぎ目へ棒手裏剣を投げる。刺さった棒手裏剣は数秒後、一斉に爆発しナディアの四肢の自由を奪う。そこへ、アンが目にも止まらぬ速さで急所を突き、ナディアを沈めた。
「……終わりました、エカテリーナ様」
アンが刀を納めようとした、その時だった。
「使えん実験動物が! ならば、崇高な存在の器として使ってやろう」
高みの見物を決め込んでいた法衣の男が、不気味な黒い魔導書を開いた。
「――暗黒の理よ、この空っぽの器に『神の使い』を宿せ!」
男の放った禍々しい黒霧が、倒れ伏したナディアの体内へ無理やり潜り込む。
「ガ、ガガ……ギギギ……ッ!!」
ナディアの肉体が異常な角度で折れ曲がり、背中から不浄な翼が突き出す。悪魔憑き――それは対象の魂を餌に、絶大な力を引き出す禁忌の魔法。
「清純なる断罪者よ、その醜悪な姿で、エカテリーナを食らい尽くせ!」
「ア……カテ……ナ……サマ……」
その時、濁りきったナディアの瞳が、一瞬だけエカテリーナを捉えた。
破壊された人格の奥底、エカテリーナに肌を整えてもらったあの日の「温もり」だけが、奇跡的に消えずに残っていたのだ。
「……エ……カテ……リーナ……サマ……。……汚い、のは……もう……いや……」
ナディアの全身から、凄まじい熱量が発生した。悪魔の力に飲み込まれる直前、彼女は自分の中に残ったわずかな魔力を逆流させ、自らを内側から焼き尽くす道を選んだのだ。
「……なっ!? 何をしている、この出来損ないが!」
側近が慌てて魔法を維持しようとするが、ナディアの最後の意志が、悪魔の浸食を拒絶し、白い炎となって噴き出した。
炎の中で、ナディアは一瞬だけ、かつて見せたあどけない笑顔をエカテリーナに向けた。
「……お見事ですわ、ナディア。不純物に魂まで明け渡さず、自らを灰にしてまで美学を貫く……。あなたの最後は、わたくし、生涯忘れません……ごめんなさい」
エカテリーナは静かに扇子を広げ、風を起こして炎を煽った。それは、苦痛から彼女を解き放つための、慈悲の風。
数秒後、そこには悪魔も、刺客も、そしてナディアもいなかった。ただ、清らかな灰が、ギルドの床に白く残されているだけだった。
「……アン、シオン、雷牙。ハチ」
エカテリーナの声は、これまでにないほど静かで、かつてないほど激しい怒りを帯びていた。
「この聖職者にあるまじき外道を塵一つ残さず焼却なさい。……マリア、わたくしの王都から一滴の脂質も残さず消し去って差し上げますわ」




