第10話:雪解けの微笑み
「これでわたくしの視界から『濁り』が消えたかしら?」
北領を支配していた強欲な領主を芸術的な「氷像」へと変え、枯れ果てていた源泉をリズの魔法で叩き起こした翌朝。エカテリーナたちは、温泉の熱気が戻り始めた村の宿屋で、穏やかな一晩を過ごしていた。極寒の乾燥に悲鳴を上げていた彼女の肌も、リズが夜通し展開していた「加湿結界」と、温泉の蒸気によって、本来の瑞々しい輝きを取り戻している。
「お嬢様、出発の準備が整いましたわ。……ですが、少々お時間がかかりそうです」
アンが宿の玄関先で外を指差した。その口元には、困惑したような響きとは裏腹に、わずかに柔らかな笑みが浮かんでいる。エカテリーナが宿の一歩外へ踏み出すやいなや、待ち構えていた村人たちが次々と駆け寄ってきた。
「エカテリーナ様! ありがとうございました! おかげで今朝は赤ん坊も凍えずに済みました!」
「姫様、これ、家で一番いいジャガイモです! 食べてください!」
歩を進めるたびに溢れんばかりの感謝の言葉が浴びせられ、一行は広場の焚き火が見える位置で立ち往生してしまう。エカテリーナはそれらを扇子で優雅にいなしながら、面倒そうに鼻を鳴らした。
「ふん。礼など不要ですわ。わたくしはただ、この地の乾燥がわたくしの美容に悪影響を及ぼすから、元凶を掃除しただけ。……ところで、あの村人たちの顔。ひび割れた表情は、景観を損ねますわね」
エカテリーナはそう毒づきながらも、リズに目配せをした。
「リズ。あの広場の焚き火の魔力を調整なさい。ただ温めるだけでなく、この地の精霊の加護を混ぜ込むのです。……わたくしが今朝浴びた源泉の、一番良い『気』を分け与えて差し上げなさい」
「はーい! 幸福の蒸気魔法、広げちゃいますねー!」
リズが杖を振ると、焚き火から立ち上る煙が淡い黄金色に輝き、優しく村中に広がった。その煙に触れた村人たちは、ひび割れた肌が内側から癒えるような心地よさを感じ、春の陽光を浴びたかのように解きほぐされていく。
「……ああ、体が、心が温かい。エカテリーナ様が、俺たちの凍った時間を溶かしてくださったんだ……」
安堵の涙と笑い声が広がっていく。マリアの偽政によって閉ざされていた領民の心に、エカテリーナの「不器用な慈悲」が届いた瞬間だった。それを見届けたエカテリーナの唇に、本人も無自覚なほど微かな、しかし極上の「微笑み」が浮かぶ。冬を終わらせる雪解けのような美しさに、傍らにいたアンとリズは思わず息を呑んだ。
ふと、二人の熱い視線に気づいたエカテリーナは、一瞬だけ瞳を泳がせ、気恥ずかしそうに視線を逸らした。だが、すぐにわざとらしい咳払いを一つ落とすと、いつもの凛とした表情を取り戻して扇子を広げた。
そこへ、宿の屋根の上から音もなく影が降り立った。雷牙である。その手には一通の書状が握られていた。
「お頭、上機嫌なところ悪いがこれを見てくれ。昨夜、あの領主の屋敷の隠し棚から拝借特級品だぜ」
「べ、別に上機嫌ではありませんわ!」
エカテリーナは少しやりにくそうな表情で差し出された書状を一読した。そこには北領の資源を隣国『ヴァルキュリア』へ流す詳細なルートと、引き換えに王都へ送り込ませる「異形の兵器」のリストが記されていた。その筆跡はサザーンで見たマリアの指示書に酷似していた。
「……なるほど。マリア、ここでもこのような美しくない台本を書き連ねていらっしゃいましたのね」
エカテリーナは冷ややかに鼻で笑い、書状を指先で弾いた。すると、隣に控えていたアンが静かに一歩前へ出た。
「お嬢様、その件でしたら既に対策を講じております。昨晩、雷牙と共に領主の館へ再潜入し、残された通信記録と兵器の移送状況を完全に把握いたしました」
「まあ。いつの間に……。それで、アン。その『異形の兵器』とやらは今どこにありますの?」
「次に向かわれる『芸術と宝石の街』……その地下倉庫に、ヴァルキュリアの拠点となる格納庫があることが判明しました。情報を整理し、ルートの選定も済ませてございます」
アンは、夜通しの強行軍など微塵も感じさせない涼やかな顔で報告を終えた。エカテリーナは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに満足げな、慈しむような眼差しを向けた。
「ふふ、流石はわたくしのアンですわ。朝起きた時には当たり前のように隣にいて、わたくしが望む以上の答えを用意している……。その完璧な働き、わたくしのドレスの裁縫と同じくらい非の打ち所がありませんわね。……誇りに思いなさい」
「……勿体なきお言葉にございます」
アンは深々と頭を下げた。エカテリーナの言葉に合わせるように、足元の雪が音を立てて解け、瑞々しい大地の香りが立ち上った。北領の冬を終わらせた彼女は、さらなる「汚れ」を落とすべく、次なる目的地へと優雅に歩み出す。
「さあ、北領の掃除はこれでおしまい。次は……審美眼が試される場所。芸術と宝石の街を目指しますわよ」




