EP 7
「人魚姫の尊厳破壊」
コロコロコロ……。
どんぶりの縁を跳ねたサイコロが、無情にも甲板の濡れた板の上を転がっていく。
そして、ピタリと止まった。
「……あ」
リーザの美しい顔から、スゥッと血の気が引いていくのが分かった。
「どんぶりからサイコロがこぼれやがった! 『ションベン(場外)』だァァァッ!!」
ドワーフの船長が、腹を抱えて大爆笑した。
「ションベンは即負け、無条件で親の総取りだ! いやぁ、美味い! 労働者の絶望をツマミに飲む冷えたビールは、最高に美味ぇなぁ!!」
「オーウ……プリンセス……」
「アイドルが、ションベンで負けるなんて……」
白く燃え尽きた元SWATの二人が、甲板の隅から哀れみの視線を向ける。
「私の……私の一万Kが……新しいフリフリの衣装代が……っ」
リーザはミカン箱の上にへたり込み、両手で顔を覆った。
ギャンブルによる極限のストレス。全財産を失った絶望。
そして――。
グラァァァァッ!!
その瞬間、北の海の荒波が、容赦なく木造船を大きく揺さぶった。
上下左右、内臓が浮き上がるような強烈なローリング。
「……う、うぅぅ……っ」
リーザが、真っ青な顔で口元を押さえた。
「お、おい! リーザ!? お前まさか……!」
俺が慌てて駆け寄ると、彼女は涙目で首を横に振った。
「だ、ダメですぅ……。さっきの『しょんべん』のショックと……船の揺れで……私の三半規管が、完全に『強制ロスカット』されましたぁ……っ!」
「お前人魚だろ!! なんで海の生き物が船酔いしてんだよ!!」
「人魚は……海の中を泳ぐんですぅ! 海の上に浮かぶ木の箱(船)に乗ったら……揺れるに決まってるじゃないですかぁぁ……っ!」
変なところだけ物理法則に忠実だな!
俺のツッコミも虚しく、リーザの顔色は青から緑へと急激に変化していく。
「だ、ダーリン……私、もう……限界(損切り)ですぅ……っ!」
リーザはふらふらと立ち上がると、船のへりから身を乗り出し――。
「オロロロロロロロロッ!!」
アイドルの尊厳と共に、胃の中のものを北の海へと盛大に撒き散らした。
「おいィィィッ!! アイドルゥゥゥッ!! 配信でスパチャ貰ってる奴が、野郎どもの前で派手に吐くなァッ!!」
俺が頭を抱えて絶叫する。
だが、不思議なことに、その吐瀉物から悪臭は一切しなかった。
パンの耳と、公園で摘んだ名もなき雑草サラダしか食べていない、彼女の究極の底辺食生活。
それが人魚特有の魔力と混ざり合い――海に降り注いだソレは、なぜか『キラキラと輝く虹色の液体』へと変貌を遂げていたのである。
しかも、ほのかにラベンダーと高級ハーブのようなフローラルな香りまで漂っている。
「……なんだこのオーガニックなゲロは。全然臭くないぞ」
俺が鼻をヒクヒクさせていると。
ボコッ。
ボコボコボコッ……!!
突如として、リーザが吐いたあたりの海面が、異様な白波を立てて沸騰し始めたのだ。
「……ん?」
俺が海を覗き込もうとした、その時。
「ば、馬鹿野郎ォォォッ!! てめぇ、海に何落としやがった!!」
先ほどまで大爆笑していたドワーフの船長が、血相を変えて操舵室から飛び出してきた。
葉巻が口からポロリと落ち、その顔は恐怖で真っ白に引きつっている。
「ゲロだよ! パンの耳と雑草のオーガニックゲロ!」
「この素人どもがァァッ!! 人魚の胃液はな……海中のあらゆる魔獣を狂わせる、『神話級の撒き餌』なんだよォォォッ!!」
船長の絶叫と同時に。
ズンッ……!! と、船の真下から、巨大な地震のような振動が突き上げた。
「……ボス! ソナーの反応(熱源)が異常デス! 振り切れていマース!!」
甲板の隅で寝そべっていたニコラスが、跳ね起きて叫んだ。
海の色が、変わる。
透き通った群青色の海が、底知れぬ巨大な『黒い影』によって、一瞬にして塗りつぶされていく。
「ひ、ひぃぃぃぃッ! クルー全員、衝撃に備えろォォォッ!!」
借金労働の片手間に手を出した悪魔のチンチロリン。
ヒロインが船酔いとストレスで吐き出したオーガニックなゲロ。
最高にくだらない連鎖が引き寄せたのは、北の海を支配する『最悪の絶望』だった。




