EP 2
「ロスカットの朝(有り金を全部溶かした顔)」
ジューッ、パチパチパチッ。
翌朝。
平和なマイホームのキッチンに、ベーコンの脂が焼ける香ばしい匂いと、目玉焼きの端がカリッと焦げる心地よい音が響いていた。
「よし、完璧な半熟だ。……おーい、朝飯できたぞー!」
フライパンを持ったままリビングに声をかけるが、返事がない。
いつもなら「ご飯ですぅーっ!」と一番に飛んでくるはずのリーザ(人魚姫)の姿も見えない。
不思議に思い、俺は皿を三つお盆に乗せてリビングへと足を踏み入れた。
「…………」
「…………」
「…………」
そこには、異様な光景が広がっていた。
朝日が差し込む明るいリビング。
フカフカのソファに並んで座る三人の姿は、まるでそこだけ照明が落ちているかのように暗く、重い空気を纏っていた。
リーザ、鮫島、ニコラス。
彼らは昨日俺が麦茶を飲みに起きた時の体勢のまま、ピクリとも動いていなかった。
ただ違うのは、その顔面だ。
目は虚空を見つめて焦点が合わず、顔色はフローリングの白木よりも蒼白。口からは、ふた筋の魂のような白い煙(ため息)が細く漏れ出ている。
ネットの海で散々見たことがある、あの表情。
いわゆる『有り金を全部溶かした顔』の完全再現だった。
「……おい。お前ら、徹夜でゲームやってたのか? ほら、ベーコンエッグ焼いたぞ」
俺がテーブルに皿を置くと、ベーコンの暴力的な匂いが三人の鼻腔をくすぐったはずだった。
「……うぅ」
いつもならパンの耳と雑草サラダで大喜びするリーザが、両手で胃袋を押さえ、ギリッと青ざめた唇を噛み締めた。
「ご、ごめんなさいダーリン……。私、今は何も、喉を通りませんぅ……」
ボロボロと、大粒の涙がリーザの美しい瞳からこぼれ落ちる。
えっ? あの底辺食生活のプロが、高級和牛ならまだしも、ベーコンエッグを拒否しただと!?
「いや、どうしたんだよ。腹でも痛いのか?」
俺がオロオロしていると、隣で微動だにしなかった鮫島が、カサカサに乾いた唇をゆっくりと動かした。
「……ボス」
「お、おう。鮫島、お前も顔色悪いぞ。なんだ、ゲームのセーブデータでも消えたのか?」
鮫島は焦点の合わない目で、リビングの窓の外――のどかなポポロ村の風景をじっと見つめた。
「……この村に、鉄道は走っていないか?」
「は? 鉄道? いや、馬車か、ルナミス帝国直通の魔導列車なら遠くにあるけど……なんで?」
「飛び込みたい」
「…………は?」
鮫島は、かつてロス市警で数々の凶悪犯と対峙してきた時よりも、遥かに深い絶望のトーンで呟いた。
「中央線がいい……。いや、総武線の快速でもいい……。俺は今すぐ、あの重い鉄の塊に全身を轢き潰されたい……」
「オーウ……ユーゴ。ミーも同乗しマース……。もう、何も考えたくないデス……」
ニコラスが、ソファのクッションに顔を埋めて嗚咽を漏らした。
「待て待て待て! 怖い怖い怖い! お前ら何があった!? なんで朝っぱらからそんなハードボイルドな自殺志願者みたいになってんの!?」
俺がパニックになっていると、胃を押さえていたリーザが、震える声で二人を嗜めた。
「だ、ダメですよぉ、鮫島さん、ニコラスさん……。電車に飛び込んだら、片付けをする駅員さんが可哀想ですぅ……」
アイドルらしい、他者を思いやる優しい言葉。
しかし、それに続く言葉は、極限まで現代社会の闇を煮詰めたようなブラックすぎる思考だった。
「それに……朝の通勤ラッシュを止めちゃったら……会社に向かう、サラリーマンの皆さんの邪魔になっちゃいますぅ……。迷惑は、かけちゃダメですぅ……」
「どんな底辺のリアルな思考回路だよ!! 人魚姫が口にしていいセリフじゃねえぞそれ!!」
俺の激しいツッコミも、彼らの耳には届いていないようだった。
「……防衛線は完璧なはずだった……」
鮫島が、虚空を掴むように両手を震わせながら独り言を始める。
「だが、敵(相場)のフラッシュ・クラッシュ……あの下落の速度は、俺の戦術マニュアルのどこにも載っていなかった……。一瞬だ。一瞬で、俺たちの資金が……弾薬代が……」
「ダーリン(視聴者)から巻き上げたスパチャが……私の新しいアイドル衣装代が……」
三人は再び、真っ白な灰へと戻っていった。
「……おい。ちょっと待てよ」
俺は、昨夜彼らがテレビ画面で見ていた『赤と緑のギザギザの階段』と、鮫島が口走った『ロスカット』という単語を、頭の中で結びつけた。
大学時代、経済学部の友人がパチンコ以上にハマり、そして見事に破産していったあの『悪魔のチャート』。
「お前ら……まさか、夜な夜なやってたゲームって……『FX』か……?」
俺の問いかけに。
三人はビクッと肩を震わせ、ゆっくりと、ギギギ……と首をこちらへ向けた。
その瞳には、一万の死蟲の軍勢を前にした時よりも遥かに深い、『本物の絶望』が宿っていた。




