EP 8
「家庭菜園の悲劇(主人公激怒)」
ズゴォォォォォンッ!!
夜空に浮かぶ美しい満月を、突如として禍々しい漆黒の暗雲が覆い隠した。
空気が重く沈み、マイホームの庭に吹き荒れていた火薬と殺虫剤の匂いが、死臭を思わせる冷たい冷気へと塗り替えられていく。
「……ボス。ただの虫ケラ(ホスタイル)とは違う、巨大な熱源反応デス」
「ああ。どうやら、親玉の登場らしいな」
アースジェットの缶を捨てた鮫島とニコラスが、SCAR-HとベネリM4を構え直し、上空を睨みつけた。
空間が歪み、ドス黒い魔力の渦の中から、一人の男がゆっくりと降下してくる。
道化師の仮面を被り、身の丈を越える巨大な大鎌を持った魔人――死蟲軍・指揮官ギアン。
『愚かなる人間どもよ! 貴様らのつまらぬ抵抗もここまでだ!』
ギアンは空中に浮遊したまま、拡声魔法で芝居がかった声を響かせた。
『我が名は魔人ギアン! 死蟲王サルバロス様が右腕にして、絶望を奏でる死の道化師! 貴様らの薄汚い庭を、真の地獄へと変えてや――』
ズァンッ!!
ギアンはマントを翻し、圧倒的な威圧感を放ちながら、俺のマイホームの庭先へと華麗に着地した。
魔王軍の幹部にふさわしい、完璧な登場。
これで誰もが恐怖に顔を歪め、絶望の叫びを上げるはずだった。
――ぐしゃっ。
ギアンの足元で、何かが無残に潰れる、ひどく間の抜けた音が鳴った。
「……ん?」
ギアンが首を傾げる。
その瞬間。
さっきまで闘気と銃火器で大暴れしていたイグニス、キャルル、鮫島、ニコラスの四人が、ピタリと動きを止めた。
そして、彼らは一切の殺気を消し、スッと武器を下ろしたのだ。
「オーウ……」
ニコラスが胸の前で十字を切り、目を閉じる。
「あーあ。やっちまったな、アイツ……」
イグニスが、心の底から哀れむような目でギアンを見つめた。
「……は? 貴様ら、なぜ武器を下ろす? 恐怖で腰を抜かしたか?」
ギアンが不審に思い、周囲を見回す。
誰も答えない。
ただ、リビングの窓際から、信じられないほど冷たい、絶対零度の声が響いた。
「……おい」
声の主は、俺だ。
俺は縁側に座ったまま、ギアンの『足元』を、正確には彼の重厚なブーツの裏に踏み্যাশ(にじ)られているものを、じっと見つめていた。
「ん? なんだこれは? 赤い……果実?」
ギアンが足をどけると、そこには、俺が転生前から大切に育て、毎朝水をやり、ようやく赤く色づき始めていた『家庭菜園のプチトマト(Amazonのプランター栽培セット)』が、無残なケチャップ状になって潰れていた。
「……俺のトマトに、何してくれてんだ?」
「とまと? ハッ、なんだそれは。我ら魔王軍の幹部の前で、たかが下等な植物一つで――」
「黙れよ」
俺はゆっくりと立ち上がった。
頭の中の導火線に、チリッ、と火がつく音がした。
35年ローンを背負わされ、婚約破棄され、理不尽に異世界に飛ばされた俺の、唯一の心のオアシス。
毎朝、少しずつ赤くなっていく実を眺めながら、「明日の朝食のサラダに入れよう」と、リーザたちと楽しみにしていた、俺の愛しきプチトマト。
それを、どこぞのピエロ野郎が、土足で踏み潰しやがったのだ。
「お前ら、下がってろ」
俺は、ルチアナ(駄女神)から押し付けられた護身用の三節棍『王帝』を右手に握りしめ、素足のまま庭の敷石に降り立った。
「……ボスが、前線に出るだと?」
鮫島が息を呑む。
「マモル、本気か!? お前はただの一般人だろ!」
キャルルが慌てて止めようとするが、リバロンがスッと手を伸ばして彼女を制止した。
「お待ちください、キャルル様。……加藤様の逆鱗に触れた愚か者がどうなるか。我々は見届ける義務があります」
ギアンは、丸腰に近いジャージ姿の俺を見て、腹を抱えて笑い出した。
「クハハハハハ! 傑作だ! ただの貧弱な人間が、その鉄の棒切れで私に挑むというのか! いいだろう、貴様の魂から先に刈り取って――」
「もう一回言うぞ」
俺は『王帝』を構え、ギアンを真っ直ぐに睨みつけた。
怒りで視界の端が赤く明滅している。
「俺の家庭菜園を荒らす害虫は……一匹残らず、叩き潰す」
魔人ギアンの真の絶望は、魔王軍でも勇者でもなく、ただのキレた『マイホームパパ』によってもたらされようとしていた。




