十話目
口内に残っていた血を吐き出し、ゆっくりと身を起こす。幸いにも周囲に死体の残骸は見当たらない――すべて椅子ウサギが喰らい尽くしたおかげだが、メアに見せなくて済んだのは好都合だ。彼女の目を塞ぎつつ、俺はある場所へと足を向ける。
そこは――あの拷問所。おそらく、あの青年はそこにいる。
少し歩くと見えてくる不気味な二階建ての建物。俺にとっては慣れ親しんだ場所でもあり、椅子ウサギにとっては生まれた場所。だが、そこはあまりにも凄惨な場所だ。いくつも血が染み込んだドアをゆっくり開けると、こちらに漂ってくるむせ返るような臭気。血と汗と排泄物が混じり合った匂いだ。
「椅子ウサギ。お前はメアとここにいろ。絶対に守れ」
「グルゥ」
有能なボディーガードに彼女の世話を任せ、俺はその中へと足を踏み入れる。すると、奥の方で鎖に繋がれた誰かの姿が見えた。すぐさまそちらに歩み寄って――俺は思わず息を呑む。
そこにいるのは青年――のはずだ。ただ、顔面が原型もなくなるほどぐちゃぐちゃにされており、手足もあらぬ方向に曲がっているので判別ができない。開かれた口からはヒューヒューという掠れた呼吸音が漏れていた。
屈みこんで、優しく問いかける。
「おい、俺がわかるか?」
「う……あ……?」
重傷だ。瞼が腫れ上がって物を見ることすらできていない。
「……《癒えよ》」
すぐさま呪文を詠唱し、傷を癒していく。時間はかかりそうだが、治らないほどではない。しばらくして、彼はこちらを見上げ、
「あぁ……逃げられたんですね。よかった」
心底、安堵したような声で告げた。だが……
「お前……どうしてあんな真似をした? 俺がお前に何をした?」
それはずっと俺が思っていたことだった。少なくとも、こんな目に会ってまですることではない。だというのに、彼は口の端を歪めて口を開く。
「だって……あの時助けてくれたじゃないですか」
違う。あの時、もし助けなかったら拷問されるとわかっていたから助けたんだ。だというのに、こうなっては助けた意味がないじゃないか。
「……お前、名前は?」
「……ゴーシュです。ゴーシュ・アルドレッド」
「じゃあ、ゴーシュ。お前は大馬鹿野郎だ。罪人なんかに手を貸すなんて正気の沙汰じゃない」
「そうですね。自分はどうしようもない大馬鹿野郎です」
いや――違う。本当にどうしようもないのはこの国だ。そして、人だ。同族である人間に、ここまで残酷な真似を出来るのだから。
そんなことを思っているうちに、彼の傷が全快した。とはいえ、失った血や体力がすぐに充填されるわけではない。鎖から解放するや否や、彼は糸の切れた人形のようにそこに突っ伏した。どうやら気を失っているらしい。
「ありがとな、ゴーシュ」
彼を肩に担ぎ、ドアの方へと向かう。すると、メアがひょこっと顔を覗かせてこちらを見てきた。
「その人も連れていくの?」
「ああ、もちろんだ」
おそらく、ここに残していても同じような扱いを受けるだろう。だとすれば、連れだした方が彼のためだ。幸い、他の兵士たちはすべて椅子ウサギが喰らった。きっと、いなくなったとしても喰われただけと思われることだろう。
拷問上から出ると同時、俺は椅子ウサギの背中にゴーシュをそっと乗せた。椅子ウサギも面識がある相手だったのがよかったのか別段荒ぶる様子もなく気遣っているようだった。
さて――最後の大仕事だ。
「全員、ちょっと離れてろ」
メアは不思議そうにしながらも拷問場から遠ざかっていき、椅子ウサギは彼女を守る盾のように前に立ちふさがっていた。これなら怪我をする心配もないだろう。
そこですっと手を前にかざし、
「《死者よ》……」
呪文を紡ぐ。
「《一切合切躊躇なく》……」
胸の奥で渦巻くこの感情の全てをぶつけるかのように、一言一言力を込めて。
「《怒りのままにすべてを壊せ》!」
詠唱を、終えた。
直後、前にかざした右手から放たれる一筋の閃光。それは見事に建物に直撃したかと思うと……一拍おいてそれを破壊した。響く轟音と、巻き上がる粉塵。先ほどまで目の前にあった建物は、跡形もなく消滅した。
これで少しはすっきりした。大きく息を吐き、メアたちの方に向きなおる。
「すぐ出発するぞ」
「どこへ?」
「さぁな……適当に考えるさ」
そんなことを言いつつ、メアと椅子ウサギの体に触れ呪文を唱える。
「《風よ、力を貸せ》」
すると周囲の風が渦巻き、俺に纏わりついた。さらに俺はメアたちを離さないようにしっかりと掴み、上昇気流を生み出す。一瞬の余韻の後、ふわりと俺たちの体が浮いた。
「すごい……すごいわ、ウル!」
興奮した様子のメア。あまりにそれが可愛らしかったので、つい口元を緩めてしまった。
「あんまり喋るなよ。舌を噛むぞ」
そんなことを呟き、風を操って宙を滑空する。すると、徐々に勢いがつき始めその場からグングンと離れていった。もう俺がいた塔も米粒ほどの大きさになっている。
チラリと見れば、メアは嬉々として下に見える街並みを見下ろし、椅子ウサギは高いところが苦手なのかガタガタと震えていた。ゴーシュはいまだ気を失っていて、ぐったりとしている。ただ、傷は全快しているのですぐ目覚めるだろう。
「まぁ……当面の問題はどこに行くかだな」
ぼそりと呟きつつ、尚も飛行を続けていく――と、そこで目の前の雲が晴れ、その向こうから月が覗きこんでくる。思えば、あそこに入れられて以来夜間はずっと地下室だった。久しぶりに見る月はやはり綺麗で、優美で、どこか懐かしい。




