第5話 はじめて分け合うもの
背後で、カシアンの苛立った靴音が遠ざかっていった。人目のある場所で泣きわめくセシルを置き去りにして、自分だけさっさと逃げ出したのだ。
セシルは泥の上に両手をついたまま、しばらく荒い息を繰り返していた。
イネスは歩みを止めなかった。けれど、背中を追いかけてくるはずの泣き声がふっと途切れて、思わず歩調がゆるむ。
衣擦れの音がした。セシルが、よろよろと立ち上がったらしい。
「お姉様」
かすれていたけれど、さっきまでの狂乱が嘘みたいに落ち着いた声だった。
肩越しに振り返ると、セシルは泥で汚れたスカートを両手で握りしめ、真っ青な顔でこちらをにらんでいた。その目の奥ではまだ片想いの熱がごうごうと燃えていて、それに焼かれる痛みで瞳がゆがんでいる。
でも、もう手を伸ばしてはこなかった。
「わかったわよ。取り消せないのね」
「ええ」
「お姉様は、こんなものを五年も抱えてたのね。信じられない。馬鹿じゃないの」
セシルは泥まみれの指で、転がっていた日傘の柄をつかみ上げた。
「痛い……っ、こんなの、聞いてないわよ!」
悪態をつきながら胸元を乱暴に押さえ、ふらつく足取りで歩き出す。イネスは声をかけなかった。
胸がすっとするような気持ちには、ならなかった。冷たい石を飲み込んだみたいに、お腹の底が重い。
セシルの背中が角を曲がって見えなくなるまで見送ってから、イネスは前を向いた。
隣を歩くルカの歩幅が、目にとまった。
さっきみたいに前に出すぎることも、後ろへ下がることもない。肩が触れそうな距離で、ぴたりと並んで歩いている。
「ねえ、ルカ」
「ん?」
「私たち、これからどうする?」
「どうするって、屋敷まで送るけど」
「ほら、またそれ」
イネスが足を止めると、ルカもつられて止まった。
きょとんとしているルカを、正面から見上げる。
「ルカっていつも、送るとか、迎えに行くとか、そればっかり。ねえ、迎えに来たり送ったりする以外で、私と二人で何がしたい?」
ルカは面食らったように、琥珀色の目をぱちぱちさせた。
そんなこと、生まれて初めて聞かれた。そう顔に書いてある。無骨な指で顎をこすって、川面に目を泳がせて、それからイネスの顔をまじまじと見た。
「したいこと、か」
「そう。泣いてる私を保護するんじゃなくて。ただのルカが、ただの私と一緒にしたいこと」
しばらく黙りこんでいたルカの耳が、じわじわと赤く染まっていった。彼はごまかすように咳払いをひとつして、運河の先の小さな広場を指さした。
「昔、紙切れに炭で描いただろ。あそこの抜け道とか、荷揚げ場の積荷の山とか」
「覚えてる! 会いたい場所を描いて、どっちが先に相手を迎えに行けるか競争したのよね」
「あの続きを、いま描きたい」
ルカは上着の内ポケットから仕事用の手帳を出して、白紙を一枚ちぎった。先を削った細い炭筆を差し出され、イネスは目を丸くしながら受け取る。広場の噴水の縁に並んで腰かけて、紙を膝の上に広げた。
「はい、ルカから描いて」
「笑うなよ」
ごつい指が、ぎこちなく線を引いていく。やたらと几帳面な直線に、角ばった輪郭。それを見ていたイネスは、思わず吹き出した。
「何これ。巨大な毛虫?」
「柳だ! どう見てもさっきの柳並木だろ」
「葉っぱが針金みたい。昔からちっとも上達してないじゃない」
「うるさい。じゃあお前が描いてみろ」
炭筆を取り返して、イネスは余白に川の流れをすっと描いた。その先に、古い水門の屋根を乗せる。子どもの頃、ルカが「あの上、すげえ見晴らしいいんだぞ」とよく自慢していた場所だ。
描いているうちに、指が止まった。
「私ね」
「ん?」
「カシアン様といた五年間、一度もルカの好きな場所を思い出さなかった。迎えに来てもらう場所はいつも、私が泣いて動けなくなった暗がりばっかりで。あんなの、地図ですらなかったわ」
ルカは何も言わなかった。
ただ、紙の上から炭筆を下ろして、黒く汚れた指を払いもせずに膝の上に置いた。
「俺はもう、お前が泣くのを待ちたくない」
ルカの手が伸びてきて、イネスの指先に触れた。炭のついた親指が、イネスの掌のふちをそっとなぞる。
「傷ついたお前を迎えに行くだけの役目は、もう終わりにしたい。今度は最初から、まっすぐ俺のところに来てほしい」
どきん、と心臓が跳ねた。
カシアンに甘い言葉を囁かれたときの、あの焦げつくような熱とは違う。もっと温かくて、くすぐったくて、どうしていいかわからなくなる鼓動だった。
二人で描いた下手くそな地図の上で、炭まみれの指がそっと重なった。




