第4話 取り消せない代償
ルカが、顔を覆っていた大きな手をゆっくり下ろした。
鳶色の前髪の隙間から、赤くなった目がのぞく。
「覚悟がなかった、か」
イネスは足元の枯れ葉を、靴の先でそっと踏んだ。
「私もよ。ルカの腕の中に逃げ込んでいれば、本当にひとりぼっちになることだけは避けられたんだもの。二人とも、ずいぶん卑怯だったのね」
そう言って小さく笑ったとき、川沿いの小道に、せかせかした革靴の音が響いた。
柳並木を縫って、仕立てのいい外套をひるがえした男が近づいてくる。
カシアンだった。
ついさっき対岸でセシルを突き放したばかりの男が、どうしてこちら側にいるのか。イネスが眉をひそめると、カシアンはイネスを見つけるなり、あからさまにほっとした顔で駆け寄ってきた。
「イネス! 探したよ。屋敷にもいないし、まさかこんな下町の川べりにいるなんて」
整った顔に、お得意の困り眉を浮かべている。けれど、イネスの隣に立つルカを見た瞬間、その目にちらりと不快の色がよぎった。
「衛士殿、ご苦労だったね。もういいよ。彼女の付き添いは僕が代わるから」
当たり前のようにそう言って、カシアンはイネスの手首に手を伸ばした。
ルカがとっさに前へ出かけたが、それより早く、イネスはすっと手を引いた。空振りしたカシアンの手が、行き場をなくして宙に浮く。
「イネス?」
「何のご用でしょう、カシアン様」
平らな声だった。冷たくすらない、ただの事務的な声。
カシアンは一瞬たじろいで、すぐにいつもの柔らかい笑みを貼りつけた。
「昨日の噂を聞いたんだよ。セシル嬢が君から何かを譲り受けたって。まさか、僕への気持ちを妹に譲っただなんて、そんな馬鹿げた冗談、本気にするわけないだろう? 僕たちはずっと、特別な絆で結ばれてきたじゃないか」
「冗談ではありません。すべて事実です」
「嘘はやめてくれ。だってあれは何だ? さっきのセシル嬢の、僕にすがりついて泣きわめくだけの、浅ましい感情は。あれが君の愛だなんて、そんなはずがない」
浅ましい。
イネスは心の中で、その言葉を繰り返した。
五年間、イネスが抱えていたのはまさに「それ」だった。この人はそれを知っていて、浅ましいと笑いながら受け取っていたのだ。
足を止めた通行人たちの視線を気にして、カシアンは声を落とし、ベンチの前まで詰め寄ってきた。
「君が傷ついていたのは知ってる。僕も少し軽はずみだった。謝るよ、僕が悪かった。だから、あの気持ちを取り戻してくれ。僕をいちばんに愛してくれる君に戻ってほしいんだ。君がいないと困るんだよ。来月の、君の家からの融資の話だって――」
そこまで言って、カシアンははっと口をつぐんだ。
遅かった。
イネスの中にかろうじて残っていた情のかけらが、音もなく崩れ落ちた。
「ああ、そういうことでしたか」
「ち、違う、今のは」
「父がオルディス家への融資を考えていることも、私が口添えしていたことも、ちゃんとご存じだったんですね。だから五年間、私を手放さなかった。泣かせても、待たせても、最後に『特別だよ』と言えば戻ってくる、便利な財布として」
「イネス、聞いてくれ!」
「いりません」
短く言い切ると、カシアンが口を開けたまま固まった。
「私の恋は、もう私のものじゃないんです。それに、あなたの勝手なお願いを聞く理由も、私にはひとつもありません。融資の口添えも、今日で取り下げます。父にもそう伝えますね」
カシアンの顔から、さあっと血の気が引いていった。
整った唇がわなわなと震える。「待ってくれ」「それは困る」と、うわごとみたいに繰り返しながら、一歩、二歩と後ずさる。
そのとき、橋を駆けてくる足音が響いた。
泥だらけのセシルだった。拾ってきた日傘を握りしめ、髪を振り乱して、息を切らしながらイネスの足元に倒れこむ。
ぐにゃりと曲がったレースの日傘が、石畳に転がった。
「お姉様!」
震える指が、イネスのドレスの裾をわしづかみにした。
「返して……! お願い、お姉様、これを返させて!」
セシルは狂ったように自分の胸を叩き、爪を立てた。
「苦しいの! 息ができないの! あの人がほかの女を見るたびに、お腹の中を刃物でえぐられてるみたいに痛いのよ! こんなの聞いてない! 私は愛してほしかっただけなのに、なんでこんな、死にそうなくらい苦しいだけなのよ!」
血を吐くような泣き声が、川面に響き渡る。
カシアンは汚いものでも見るように顔をしかめて、さらに二歩下がった。その仕草を見た瞬間、セシルの体がびくんと跳ねて、引きつけを起こしたように震えだす。
「嫌……嫌! カシアン様、私を見て! 行かないで! でも痛い、苦しい! お姉様、取り消して! 〈賜与の契り〉を取り消して、お姉様が全部引き取ってよ!」
泣きわめく義妹の頭上を、冷たい川風が吹き抜けていった。
イネスは裾をつかむセシルの手を、振り払いもせず、握り返しもしなかった。
「取り消せないわ、セシル」
「嘘よ! お姉様が神官様に頼めば――」
「神前の契りは一度きり。あなたは十八の成人として、自分の意思でそれを求めたの。後悔しても戻らないって、ちゃんと言ったわよね?」
「だって、だって、こんなものだなんて思わなかったんだもの!」
「そうね。私も五年前は、思わなかったわ」
セシルの顔がくしゃりと歪んだ。
「助けて、お姉様。お願い、助けて!」
「助けないわ」
イネスは静かにそう言って、裾にしがみつくセシルの指を、一本ずつほどいていった。
「ルカ、行きましょう」
背中に、妹のすすり泣きが貼りついて離れない。
石畳を歩き出すイネスの足取りは、決して軽くはなかった。それでも、一度も振り返らなかった。




