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「お姉様の恋をちょうだい」と言われたので、片想いを譲りました  作者: 九葉(くずは)


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第3話 ずるい逃げ場所

 対岸で、セシルがふらふらとカシアンの卓へ詰め寄っていった。

 日傘が手から落ちて、石畳にカランと転がる。セシルはすがりつくようにカシアンの腕をつかんだ。けれど彼はあからさまに眉をひそめて、その白い手を払いのけた。


「セシル嬢。人前で取り乱すのは感心しないな」


 風に乗って届いた声は、ぞっとするほど冷たかった。イネスも何度も浴びせられた、甘さを脱ぎ捨てたときの、あの他人行儀な声。

 セシルは裏切られた子どもみたいに顔をゆがめた。胸をかきむしって、何か叫ぼうとして、声にならないままその場に崩れ落ちる。

 カシアンはそれを一瞥しただけだった。連れの令嬢に何か耳打ちして、さっさと席を立ってしまう。取り残されたセシルの背中が、しゃくり上げるたびに大きく揺れていた。


「行かなくていいのか」

 ルカが、喉の奥から絞り出すように聞いた。

「お前の妹だろ。あんな状態で――」

「行かないわ」

 イネスは石柵から手を離した。

 セシルが何を勘違いしているのか、イネスは最初からわかっていた。わかっていて、黙って差し出したのだ。

「あの子が自分で欲しがったのよ。傷つくのも、みっともなくすがるのも、全部まとめて欲しいって言ったの。だから、行かない」

 イネスは背を向けて、運河の下流へ歩き出した。

 ルカは黙ったまま、重い足取りでついてくる。しばらく歩いて、古いアーチ橋の陰にある石のベンチに、イネスは腰を下ろした。


「座らないの?」

「俺は立ってていい」

「そう。相変わらず頑固ね」


 ルカは落ち着かない様子で視線を泳がせていたけれど、やがて何か決めたように口を開いた。


「イネス。お前、本当にあいつのこと、何ともないんだな」

「ええ。自分でも不思議なくらい。胸が空っぽで、ちっとも痛くないの」

「そうか」


 ほっとしたはずの声なのに、どこか硬かった。

 ルカは拳を握って、腰に吊った剣の留め具を無意識にいじっている。いつもなら、イネスが無事だとわかればすぐに顔がゆるむのに。今のルカの目には、苦いものが沈んでいた。


「俺はさ」

 ぽつりと、ルカが言った。

「お前があいつに振り回されて、泣いて、ボロボロになるたびに、殺してやりたいくらい腹が立ってた。あんな男のどこがいいんだって、何度怒鳴ってやろうと思ったか」

「知ってるわ。いつも怒った顔で迎えに来てくれたもの」

「違うんだよ」


 ルカは首を横に振った。

 自分を責めている、というより、腹の底に溜めこんだ汚いものを吐き出すような声だった。


「俺は怒りながら、どこかで安心してたんだ」

「安心?」

「一昨年の冬、覚えてるか。雪の夜に、あいつに約束をすっぽかされて、お前が裏通りの酒場の軒下で凍えてた日だ」


 覚えている。忘れられるわけがない。

 あの夜、カシアンは別の女性と観劇に行っていて、イネスは待ち合わせ場所で雪まみれになって待っていた。寒さと惨めさで足が動かなくなったころ、息を切らしたルカが駆けつけてくれたのだ。


「あのとき、お前は泣きながら俺にしがみついた。『ルカ、寒い、帰りたい』って。俺は外套でお前を包みながら、心の底でほっとしてたんだよ」

 ルカはベンチの端にどさりと腰を下ろし、握っていた手袋をくしゃりと握りつぶした。

「あいつに泣かされたお前を見て、安心したんだ。これでまた俺が連れて帰れるって。あいつが最低であればあるほど、俺はお前の役に立てる。そんなことばっかり考えてた」


 イネスは立ち上がって、ルカの正面に回った。

 うつむいた彼の顔を、のぞきこむようにしてまっすぐ見る。


「ねえ、ずるかったのは自分だけ、みたいな顔しないでよ」

「え?」

「あの雪の夜、私がどれだけルカに甘えてたか、わかってて言ってる?」


 ルカが顔を上げた。


「私ね、ルカは絶対に来てくれるって、どこかでわかってたの。カシアン様にないがしろにされて、自分が惨めでたまらなくなったら、ルカを呼べばいい。夜中でも、雨でも、手紙一枚で飛んできてくれるって。痛み止めの薬みたいに、あなたの優しさを使ってたのは私のほうよ」

「イネス、それは」

「だから、自分だけ悪者になって逃げようとしないで。ずるかったのは、二人ともよ」


 水の音だけが、二人のあいだに落ちた。

 ルカはしばらく黙りこんでいたが、やがて、はは、と力の抜けた笑いをこぼした。

 泣き出しそうにも、救われたようにも見える顔だった。彼は両手で顔を覆って、長く長く息を吐いた。


「参ったな。本当に、俺はずっとずるかったよ、イネス」

 くぐもった声が、掌の隙間から漏れる。

「迎えに行くことしかできなかったんじゃない。それ以上の男になる覚悟が、ずっと持てなかっただけなんだ」


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