第2話 迎えられる側の戸惑い
「イネス? お前、なんでここに」
ルカは片手だけ手袋をはめた格好のまま固まっていた。
後ろで同僚たちが「おいおい、ルカの知り合いか?」「隅に置けねえな」と冷やかしているのに、まるで耳に入っていない。いつもは隊の先頭で落ち着き払っている男が、間の抜けた顔で目を丸くしている。
「おはよう、ルカ」
「お、おう、おはよう。じゃなくて! 一人で歩いてきたのか? 屋敷の馬車はどうした。それに、その、顔」
ルカの目が、イネスの目元をせわしなく探る。腫れていないか、涙の跡がないか。いつもの癖だ。
でも、イネスのまつ毛はからからに乾いていた。
「泣いてないわよ」
「は?」
「今日は泣いてないの。夜勤明けで、今朝は上がりだって前に言ってたでしょう。だから会いに来ただけ」
ルカは口を半開きにしたまま、次の言葉が出てこないようだった。
無理もない。夜会の裏庭でも、雨の辻馬車乗り場でも、いつだって来るのはルカのほうだったのだから。
「あー、その、なんだ。突っ立ってるのもなんだし、ちょっと歩くか」
居心地悪そうに首の後ろを掻いて、ルカは外した手袋を乱暴にポケットへねじ込んだ。
誰かに会いに来られた経験なんて、ほとんどないんだろう。歩き出してもぎこちなくて、半歩先に出ては「速いか?」と立ち止まり、並べば「狭くないか?」と横によける。大きな体の置き場所に困っているのが丸わかりだった。
「変な感じだな」
「何が?」
「いつもなら、俺がお前を馬車に乗せて、黙って隣に座ってるだけだろ。お前のほうから来られて、並んで歩くなんて、どうしていいかわからん」
低くかすれた声がおかしくて、イネスはくすっと笑った。
二人は下町の人混みを避けて、運河沿いの小道へ折れた。
石積みの護岸に沿って古い柳が並ぶ、静かな通りだ。水面が朝の光をはね返し、緑の葉がさわさわ揺れている。子どもの頃に屋敷を抜け出して見つけたお気に入りの場所で、カシアンと出会ってからはすっかり来なくなっていた。
「懐かしい。ここの柳、まだ残ってたのね」
「お前が来なくなってからも、ずっとあるぞ。巡回でたまに通る」
「そう。ルカは、ずっと見てたのね」
低い石柵に手を置くと、ざらりとした感触が掌に伝わった。
イネスは水面を見つめたまま口を開いた。
「昨日の儀式のこと、もう聞いた?」
「神殿のか? 噂でちらっとな。セシル嬢がお前から何かを譲り受けたって」
「私の恋よ。カシアン様への気持ちを、あの子に譲ったの」
ルカの足が、ぴたりと止まった。
川のせせらぎと、遠くで荷馬車がきしむ音だけが、やけに大きく聞こえる。
ルカは眉をぎゅっと寄せて、唇を噛んでいた。今にも外套を広げて、壊れそうな子どもを包みこもうとしているみたいな顔だった。
「なんで、そんな無茶をした」
「無茶じゃないわ。セシルが欲しいって言ったから、あげただけ」
「あげたって、お前、五年だぞ! あいつのことでどれだけ泣いて、どれだけ……! それを妹に奪われたのか? 言いくるめられて――」
「奪われてなんかないわ。私が自分で渡したの」
「渡したって、カシアンを妹に譲ったってことか?」
「違うわよ。カシアン様は最初から私のものじゃなかったもの。譲れるわけないでしょう。私があげたのは、あの人を好きだった私の気持ちだけ」
ルカは何か言いかけて、やめた。琥珀色の目が揺れている。
「お前、本当に平気なのか? 無理して強がって――」
「強がってないってば。ほら、見て」
イネスは一歩近づいて、ルカのごつごつした両手を取った。
前なら、この手の温もりにすがって泣きじゃくっていた。でも今は、ひんやりした朝の空気の中で、幼馴染の掌の厚みを感じているだけだ。熱病みたいにイネスを蝕んでいた執着は、どこにもない。
「嘘みたいに何もないの。痛くも、悲しくもないのよ」
「イネス」
ルカの手が、かすかに震えた。
握り返そうとして、できずに、指先だけがそっと丸まる。
「そうか。なら、いいんだ」
絞り出した声は低くて、どこか置いていかれた子どもみたいだった。
「お前が泣かないなら、それがいちばんだ。俺が口を挟むことじゃない」
そのときだった。
運河の向こう岸、洒落たカフェが並ぶ大通りから、甲高い笑い声が風に乗って届いたのは。
「まあ、カシアン様ったら! そんなお世辞、信じませんわ」
二人は同時に顔を上げた。
対岸のテラス席。白い日除けの下に、亜麻色の髪をなびかせたカシアンが座っていた。向かいには、胸元の大きく開いた派手なドレスの令嬢。
カシアンは甘く目を細めて、その令嬢の指先に口づけを落としている。彼のお得意の、手慣れたお遊びだ。
そして、その数歩うしろ。
日傘を握りしめたセシルが、真っ青な顔で立ち尽くしていた。
セシルの目は見開かれたまま、小刻みに震えている。
カシアンと、彼が触れている令嬢の手元から、目を離せないでいる。握りしめたレースの日傘が、みしりと嫌な音を立てた。唇は、今にも血が滲みそうなほど噛みしめられている。
ああ、とイネスは思った。
あれは、昨日までの私だ。
カシアンが令嬢の耳元に顔を寄せた瞬間、セシルの喉から、ひゅっと乾いた音が漏れた。
イネスは無意識に、半歩だけ前に踏み出しかけた。
靴底が砂利をこすって、そこで止まった。




