第1話 泣いていない朝
「お姉様の恋をちょうだい」
神殿の礼拝堂、白い祭壇の前で、セシルは悪びれもせずにそう言った。
閉じた扇の先を、甘いお菓子でもねだるみたいにイネスへ向けている。義理の妹になって三年。セシルがこの手のわがままを口にするのは、決まって父や周りの大人たちが後ろでにこにこと見守っているときだった。
今日で十八になったセシルには、この家に古くから伝わる〈賜与の契り〉を結ぶ権利がある。成人の祝いに、姉が承諾したものをひとつだけ譲り受けられる儀式だ。宝石でも、母の形見の小箱でも、セシルが欲しがるなら渡すつもりでいた。
「私の、恋?」
「ええ。お姉様がずっと大事に抱えてる、カシアン様とのあれよ」
セシルは金の巻き毛をふわりと揺らし、祭壇の白磁の杯を指先で弾いた。
キン、と澄んだ音が冷えた礼拝堂に響く。
カシアン。その名前を聞いただけで、イネスの胸はいつものように鈍く痛んだ。
カシアン・オルディス伯爵令息。亜麻色の髪に蜂蜜色の瞳をした、誰もが振り返る美青年だ。イネスはこの五年間、彼に心を縛られ続けてきた。会えば優しく微笑んで、指先を取って甘いことを囁いてくれる。けれど夜会のたびに彼の目は別の令嬢を追いかけ、街の踊り子に花を贈ったという噂まで耳に入ってきた。
問い詰めると、彼は困ったように眉を下げるのだ。
『イネス、君は僕にとって特別だよ。どうして信じてくれないの?』
その一言にすがって、傷つくたびに自分を責めた。不誠実な人だと頭ではわかっているのに、離れようとすると胸が裂けそうになって、結局また気まぐれな呼び出しに応じてしまう。五年間、ずっとその繰り返しだった。
「カシアン様って素敵だもの」
セシルはもう手に入れたつもりで、うっとりと目を輝かせている。
「いつもお姉様ばっかり優しくされて、ずるいって思ってたの。私なら、あの人の愛をもっと上手に受け止められるわ。ねえお姉様、妹に譲ってくださるでしょう?」
神官が広げた羊皮紙には、一行だけ記されていた。
『譲渡は己の有するものに限る』
カシアンの心なんて、最初からイネスのものではない。イネスが持っているのは、彼を想って焦がれる自分の気持ちだけだ。
セシルはそれに気づいていない。期待で頬を真っ赤にしている。
イネスは、教えなかった。
「セシル。本当に、私の恋が欲しいのね?」
「ええ、もちろん。出し惜しみしないで」
「後悔しても、契りは二度と戻らないわよ」
「ふふっ、後悔なんてするわけないじゃない。カシアン様の愛が手に入るのよ?」
忠告はした。それでも欲しいと言うのなら。
イネスは白磁の杯に右手を重ねた。神官が厳かに祝詞を唱えはじめる。
本当に手放していいのか。そんな迷いは、自分でも驚くほどあっさり消えた。泣き腫らした夜、冷え切った馬車、返事の来ない手紙。五年分の痛みが次々に浮かんでは消えていく。その全部を、この子は欲しいと言うのだ。
「いいわ。私の恋を、あなたに譲ります」
口にした瞬間、胸の真ん中に刺さっていた鉛の塊が、熱を持って喉元までせり上がってきた。
息ができない。心臓を素手で握られたような苦しさのあと、金色の淡い光がイネスの胸から抜け出し、杯を満たして、向かいに立つセシルの胸へと吸い込まれていった。
セシルがとろんとした顔で、自分の胸元を押さえる。
「あっ、すごい、胸がこんなに熱い! これがカシアン様を想う気持ちなのね!」
儀式はそれで終わった。
イネスは自分の胸にそっと手を当てた。
何もなかった。
いつもそこで燻っていた焦りも、彼がいま誰と笑っているのかという疑いも、きれいさっぱり消えていた。家具を全部運び出した部屋みたいに、がらんとしている。
イネスは誰にも気づかれないよう、小さく息を吐いた。
◇◇◇
翌朝、目を覚ますと、部屋はしんと静まり返っていた。
白い朝日が、カーテンの裾をやわらかく照らしている。
いつもなら目覚めた瞬間にカシアンの顔が浮かんだ。今日は手紙が来るだろうか、昨夜の夜会で彼は誰と踊ったのか。そんなことばかり考えて、息苦しいまま一日が始まっていた。
けれど今朝は違う。
カシアンの顔を思い浮かべても、「ああ、そういう顔の知り合いがいたわね」くらいの感想しか出てこない。彼が誰と手をつなごうが、誰に愛を囁こうが、驚くほどどうでもよかった。
本当に、消えてしまったのだ。
「信じられない」
声に出しても、涙は一滴も出てこなかった。
五年もかけた想いを手放したのに、残ったのは喪失感じゃなかった。風通しのいい、すっきりとした空っぽだった。
鏡の前に座ると、映っている自分は泣き腫らしてもいないし、やつれてもいない。昨夜ぐっすり眠れたおかげで、ここ数年でいちばん顔色がいいくらいだ。
そのとき、ひとりの男の顔が浮かんだ。
ルカだ。
幼馴染で、いまは下町の詰所に勤めている衛士。
カシアンのことで傷つくたび、駆けつけてくれたのはいつもルカだった。
雨の夜に待ちぼうけを食わされたときも、カシアンが別の令嬢と腕を組んで歩くのを見て立ちすくんだときも、どこからともなく現れて、大きな外套でイネスを包んで馬車まで連れて帰ってくれた。
『泣くなよ、イネス』
『俺が送る。もう帰ろう』
不器用な声でそう言って、涙が止まるまで隣にいてくれた。
昨日の儀式のことだって、そのうちルカの耳に入るだろう。恋を妹に譲ったなんて聞いたら、あいつはまた青い顔をして、非番の時間を削って屋敷の門まで迎えに来るに決まっている。「大丈夫か」「泣いてないか」って、自分のほうが痛そうな顔をして。
「迎えに来させちゃ、駄目よね」
あいつは優しすぎるのだ。イネスが泣くたびに呼び出されたり、勝手に駆けつけたりして、よその男に泣かされた幼馴染の世話ばかり焼かされてきた。どれだけルカの時間を奪ってきたんだろう。
今日は泣いていない。
迎えに来てもらう理由なんて、どこにもない。
イネスは動きやすい外出着に袖を通し、髪をひとつに束ねた。
帽子をかぶり、革靴の紐をきゅっと結ぶ。
玄関を出ると朝の空気は肌寒かったけれど、胸いっぱいに吸い込むと気持ちよかった。
いつも馬車の窓からぼんやり眺めていた街を、自分の足で歩く。敷石を鳴らす靴音が、やけに軽やかに聞こえた。
中央広場を抜けて下町の通りへ。角を曲がると、古い石造りの詰所が見えてきた。
入口の前で、同僚と話しながら外套を羽織っていた背の高い男が、ぴたりと足を止めた。
短く刈った鳶色の髪。生真面目そうな濃い眉と、琥珀色の瞳。
ルカだった。
片方だけ革手袋をはめかけた手が、宙で止まっている。
イネスは足をゆるめずに、彼の数歩手前まで歩いて立ち止まった。
いつもとは逆。今日は、イネスのほうから会いに来たのだ。




