第6話 逆方向の約束
噴水のしぶきが風に乗って、二人の地図の端をかすかに湿らせた。
ルカの指の炭が、触れているイネスの掌にまで移っている。彼は目をそらさずに、逃げ道をふさぐみたいにじっとイネスを見つめていた。
「ずるいわね、ルカ」
「ずるいか?」
「ずるいわよ。こんなの、断れるわけないじゃない」
そう言うと、ルカは息を詰めて、眉尻をへにゃりと下げた。勢いで言ってしまったものの、断られるのが怖くてたまらなかったんだろう。その強ばった顔が子どもの頃とちっとも変わっていなくて、イネスは思わず笑ってしまった。
「でもね、ひとつ約束して」
「何をだ?」
「ルカのことを、新しく知っていく時間をちょうだい」
イネスは重なった手を動かして、彼の指の炭を親指でこすった。汚れは落ちるどころか、薄黒く広がってしまう。
「思ってたより、指の節が太いのね。そんなことも、私、ちゃんと見てなかった」
照れくさくて小さく笑ってから、イネスはまっすぐ彼を見上げた。
「誰かを対等に好きになる方法なんて、私まだ何も知らないの。だから、時間がほしい」
ルカは驚いたように目を見開いて、それから、痛いくらいぎゅっとイネスの手を握り返した。
「いくらでもやる。一生分でも足りないくらいだ」
低く震えるその声は、夜会の裏庭でイネスをなだめてくれたどの声よりも、深く甘く、胸の真ん中に染みこんでいった。
◇◇◇
半年が過ぎて、初夏。
カシアン・オルディスの名前は、社交界の笑い話になっていた。
きっかけは、ある侯爵家のサロンだった。
カシアンは二人の令嬢の前で、昔と同じ甘い笑みを浮かべていた。オルディス家の借金は膨らむ一方で、融資の話が消えた今、裕福な家の令嬢と縁を結ぶしか道がなかったのだ。
「今宵の舞踏会、僕と一曲踊っていただけませんか。あなたの瞳の美しさは、どんな花園にも勝る」
片方の令嬢が冷ややかに眉を上げ、懐から折りたたんだ紙を取り出した。もう一人も、無言で同じような紙を差し出す。
「これ、先週あなたが私にくださった手紙ですわ」
「あら。私がいただいたのと、一字一句同じね」
「『あなたの瞳の美しさは、どんな花園にも勝る』。ほら、三行目にそっくり書いてありますわ」
サロンが、しんと静まり返った。
次の瞬間、あちこちからくすくすと笑い声が漏れはじめる。
「い、いや、それは誤解で。お二人とも魅力的だから、つい筆が」
カシアンは愛想笑いを浮かべたまま周りを見回した。けれど、誰も目を合わせない。扇の陰で笑う夫人たち、肩をすくめる紳士たち。かつて彼に見とれていた令嬢たちまでが、気の毒そうに、いや、面白そうに彼を眺めている。
悪いことは重なるもので、手紙を突き返した令嬢の片方は、カシアンが最後の頼みの綱にしていた縁談相手、侯爵家の令嬢だった。
縁談は、その場で白紙になった。
それからのカシアンは、坂道を転げ落ちるようだった。
侯爵家を怒らせたオルディス家には、どこの商会も金を貸さなくなった。仕立て屋への支払いが滞り、馬車が差し押さえられ、ついには父親の伯爵から跡継ぎの座を取り上げられた。
北の領地の、さびれた分家に預けられることが決まったという。
その話が広まった夜会で、イネスは最後にもう一度だけ、カシアンと顔を合わせた。
あれほど見事だった亜麻色の髪は艶を失い、上着の袖口はすり切れていた。頬はこけて、目の下にはどす黒い隈が浮いている。彼はイネスを見つけるなり、人目もかまわず駆け寄ってきて、その足元にがくりと膝をついた。
「イネス、頼む! 君だけだったんだ、本当に僕を愛してくれたのは!」
広間中の視線が、一斉にこちらを向いた。
「あの頃に戻ろう。今度こそ大事にする。君の家に口添えしてくれれば、僕はまだやり直せるんだ。お願いだ、北になんか行きたくない!」
すがりつこうとする手を、イネスは一歩下がってよけた。
半年前のイネスなら、この姿を見ただけで胸が張り裂けていただろう。でも今は、何も感じなかった。知らない人が床に座りこんでいるのを、少し困って眺めているだけ。
「ええ。愛していましたよ、カシアン様」
カシアンの顔に、ぱっと希望の色が差した。
「でも、その気持ちはもう私のものじゃありません。今それを持っているのは」
イネスが視線を向けた先。
柱のそばに、セシルが立っていた。
胸元を押さえ、荒い呼吸を繰り返している。季節が変わっても、譲られた恋は少しも冷めていないのだ。カシアンを見つめる目は、熱っぽく潤んでいた。
カシアンが、這うようにセシルのほうへ向き直った。
「セ、セシル嬢! 君なら、君なら僕を……!」
ぱぁん、と乾いた音が広間に響き渡った。
セシルの平手が、カシアンの頬を打ち抜いていた。
「好きよ」
セシルの声は震えていた。目から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。
「死ぬほど好き。今だって、胸が焼けて息ができないくらい。でもね、だから大っ嫌いなの! お姉様を五年も泣かせて、私のことも人前で汚いものみたいに払いのけたあなたなんか、誰が拾ってあげるもんですか!」
カシアンは頬を押さえたまま、呆然と床に座りこんでいた。
誰も手を差し伸べなかった。くすくす笑いが、ざわめきが、遠巻きの視線が、彼の上に降り注ぐ。やがてオルディス家の使用人が二人がかりで彼を抱え起こし、引きずるように広間から連れ出していった。
「待ってくれ、イネス! イネス!」
閉まりかけた扉の向こうから、情けない声だけが最後まで聞こえていた。
セシルは赤く腫れた手を握りしめたまま、肩で息をしていた。
「セシル」
思わず伸ばしかけたイネスの手を、セシルはぷいと身を引いてよけた。
「同情なんかいらないわよ。これは私が欲しがったものなんだから」
曲がった柄の日傘を杖みたいについて、セシルは顔を上げて歩いていく。泣きはらした目のまま、背筋だけはまっすぐに伸ばして。
あの子はこれからもずっと、あの痛みを抱えて生きていくのだろう。
イネスは、それを止めなかった。
◇◇◇
数日後の夕暮れ。
イネスは革靴の紐を締め直して、屋敷の重い扉を押し開けた。手には小さな紙包み。中身は、昨夜削り直した炭筆と、新しく描いた地図だ。
辻馬車には乗らない。自分の足で、石畳の坂を上っていく。
向かう先は、下町の詰所じゃなかった。
中央広場を抜けて、東の高台へ続くゆるやかな石段を上る。その先は街外れの古い城壁跡で、見晴らしのいい広場になっている。
ルカが子どもの頃、親に叱られたときや、衛士学校の訓練でこてんぱんにされたとき、一人で来ていた場所。カシアンに夢中だった頃のイネスは、一度も連れてきてもらえなかった。
『いつか、お前が誰のせいでも泣かなくなったら、連れて行きたかったんだ』
付き合いはじめてすぐのころ、ルカが照れくさそうにそう打ち明けて、ようやく教えてくれた場所だ。
石段を上りきると、気持ちのいい夕風が吹き抜けた。
眼下では家々に灯りがともりはじめ、街が星をまいたようにきらめいている。
崩れた城壁に腰かけて長い脚を投げ出していた男が、足音に気づいて振り返った。
非番の服を着たルカだった。
夕日を背負った鳶色の髪が、赤く透けている。
「イネス?」
ルカは立ち上がって、信じられないものを見るように目を見張った。
それはそうだ。昔のイネスはいつも待つ側で、息を切らして駆けつけるのはルカの役目だったのだから。
「迎えに来たわよ、ルカ」
息を整えながら、イネスは城壁のそばまで歩いていった。
紙包みを掲げてみせると、ルカの驚いた顔が、なんとも言えない柔らかい苦笑にほどけていく。
「お前なぁ。迎えに来られるの、まだ慣れないんだって」
「慣れてもらわなきゃ困るわ。これからは私だって、会いたいときに会いに来るんだから」
「そうかよ」
呆れたように肩をすくめながら、ルカの手は迷わずイネスのほうへ伸びてきた。
紙包みを受け取るついでに、彼の指がイネスの指先を自然に絡めとる。もう、ためらいも遠慮もなかった。
「手、冷たいな。ここ、風が強いから」
「坂を上ってきたから、心臓はぽかぽかよ」
「口ばっかり達者になりやがって」
ルカは低く笑って、イネスの手ごと自分の上着のポケットに突っこんだ。
布ごしに、ルカの体温がじんわり伝わってくる。胸がきゅうっと甘く痛んだ。
儀式で誰かに渡せるような恋じゃない。泣いて、ずるさをさらけ出し合って、二人で一から描いてきた、イネスだけの新しい恋だった。
「なあ、イネス」
「なに?」
「明日の非番も、迎えに来てくれるか?」
「どうしようかしら。ルカのほうが先に屋敷まで来ちゃうかもしれないじゃない」
「じゃあ、途中で鉢合わせだな」
「なら、待ち合わせは運河の柳の下ね」
くすくす笑い合って、会話がふっと途切れた。
ルカが、ポケットの中でイネスの指をぎゅっと握る。
「イネス」
「うん」
「好きだ。昔から、ずっと」
知ってる、と言いかけて、イネスはやめた。
ちゃんと言葉で返したかった。待つだけでも、迎えられるだけでもない、自分の足でここまで来た自分の言葉で。
「私も好きよ、ルカ。今度は私が、何度だってあなたを迎えに来るわ」
ルカの顔が、夕日よりも赤く染まった。
城壁の上を吹き抜ける風の中で、ポケットの中の二人の手は、いつまでもほどけなかった。




