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第6話:同じ顔をした人

ヒロイン4人目

「……うむ。やはり、バイブルは裏切らないな」


 セント・アグネス王立女学院の図書室。

 その最奥、埃っぽい歴史書の棚に囲まれた死角で、俺――アルベルタことアルバート・グレイは、一冊の本を熱心に読み耽っていた。

 表紙には、毒々しいほど鮮やかな薔薇の絵と、扇情的なタイトル。


『薔薇のしずくは恋に濡れて』


 著者は大衆小説界の寵児、ローズ・ブラックウッド。


(黄昏のテラスでの決別。ここのヒロインの立ち居振る舞い……特に、悲しみを堪えて扇子で口元を隠し、視線だけを斜め下に向ける、この所作。これはエレノア様たちに不意に鋭い質問をされた時の回避策として、極めて有効だ。練習しておかなくては)


 俺は真剣だった。

 商人にとって、資料調査と予習は基本中の基本。

 この女学院という異世界の商談相手を攻略するために、俺はこの小説を教科書として、一字一句漏らさず暗記する勢いで読み込んでいるのだ。


 不意に、背後で微かな衣擦れの音がした。


「……あら。そんなところで、何を読んでいらっしゃるのかしら?」


 心臓が跳ねる。

 俺は咄嗟に『薔薇のしずく』を懐というか、ドレスの胸元の隙間に隠そうとしたが、間に合わなかった。


 そこに立っていたのは、この学院でも指折りの名家、クレイン侯爵家の令嬢イザベラだった。

 流れるような黒髪を完璧にまとめ上げ、常に涼やかな微笑を絶やさない彼女は、エレノア様とはまた別の意味で完璧な淑女として知られている。

 そして、何より彼女は――。


(……イザベラ・クレイン。保守的で厳格なことで知られるクレイン侯爵家のご令嬢。そんな彼女に、こんな大衆小説を読んでいるところを見られたら、グレイ商会の品位が疑われる……!)


 俺は、冷や汗を拭いながら、本を背中に隠した。


「あ、これ、これは……その、歴史の、資料でして……」

「嘘をおっしゃい。今の表紙、ローズ・ブラックウッドの新作でしょう?」


 イザベラの目が怪しく光る。

 彼女は周囲に誰もいないことを確認すると、驚くほど素早い動きで俺との距離を詰め、その綺麗な顔を俺の胸元にまで寄せた。


「……あなた、あんな下品な小説を愛読していらっしゃるの?」

「い、いえ、愛読というか、その、社会勉強の一環としてですね……」

「ふふ、いいのよ。隠さなくても。実はわたくしも――」


 イザベラは扇子で口元を隠し、声を潜めた。


「――そういう低俗な作品が、どうしてこれほど世の女性を惹きつけるのか、分析しているところなんですもの。同志、と言ってもいいわね」


(同志。そうか、彼女も侯爵令嬢としての品位を守るために、密かに流行りものを研究しているのか。さすがは名門の令嬢、隙がない)


 俺は安堵した。

 だが、俺は知らなかった。

 このイザベラ・クレインこそが、ペンネーム『ローズ・ブラックウッド』その人であり、今まさに俺の懐にある教科書の執筆者であることを。


「それで?アルベルタ様。あなた、あの物語のどこをそれほど熱心に読んでいらしたの?」

「ああ、第22章の、ヒロインが自分の正体を隠しながら、愛する者に背を向ける場面です。あの時の指先の震えと、視線の落とし方……。あれは、実に真に迫るものがありました。あれほどの心理描写は、並大抵の人間には書けませんよ」


 俺は、純粋な実用書への評価として熱を込めて語った。

 実際、あの描写のおかげで、俺は何度も男だとバレそうな瞬間を、悲劇的な沈黙として乗り越えてきたのだ。感謝してもしきれない。


 イザベラの顔が、わずかに赤らんだ。


「……まあ。そんなに、高く評価していらっしゃるの?」

「ええ。作者のローズ氏は、間違いなく天才です。市場のニーズを的確に把握し、読者が最も『見たい』と思う虚飾を、完璧な形で提供している。商売人として、これほど完璧な商品パッケージングは見たことがありません」


(原価である執筆コストは不明だが、ロイヤリティは計り知れないだろうな。いつか版権交渉をしたいものだ)


 イザベラは、じっと俺を見ていた。

 彼女の脳内では今、凄まじい化学反応が起きていた。


(……この方。アルベルタ・グレイ。噂には聞いていたけれど、なんて……なんてわたくしの書いたヒロインそのものなのかしら!)


 イザベラは戦慄していた。

 目の前にいるのは、自分が机に向かって理想として書き連ねた、凛々しくも儚く、高潔でありながら孤独を抱えた乙女。

 その少し芝居がかった所作、深い溜息のつき方、そして何より、自分を偽りながら生きているその気配。


(そう。この方は、わたくしと同じ。素顔を隠し、世間の目に晒される『虚像の自分』を演じている。しかも、その演技があまりにも完璧すぎて……まるでわたくしの小説の中から抜け出してきたかのよう!)


 イザベラは感動に震えた。

 彼女にとって、アルベルタは読者ではなく、自分の理想を体現する唯一無二のモデルに見えていた。


「……アルベルタ様。一つ、お願いがあるの」

「はあ、何でしょうか?」

「わたくしに、もっとあなたのことを教えてくださらない?あなたが何を考え、何に苦しみ、どうしてこれほどまでに『美しい嘘』をまとっているのかを」


(美しい嘘?ああ、俺が女装していることか!待て、気づかれたのか!?)


 俺はギョッとした。

 だがイザベラの目は、俺の股間や喉仏を狙っているわけではなかった。

 彼女が見ているのは、もっと抽象的な、物語の中の秘め事のようなものだ。


「わたくしは、隠し事をしている人間が好きなの。そして、その隠し事を暴くよりも、共に抱えていくことに喜びを感じるタイプですわ」

「……それは、つまり、わたくしの正体を知っても、黙っていてくれるということでしょうか?」


 俺は、藁にもすがる思いで尋ねた。

 イザベラは、意味深な笑みを浮かべて頷いた。


「ええ。もちろん。それが物語というものですもの。わたくし、あなたのことをもっと近くで観察……いいえ、見守らせていただきたいわ」


(助かった!理由はよく分からないが、彼女は俺の不自然さを、貴族的な秘め事として面白がってくれているらしい。さすがは侯爵令嬢、懐が深い!)

 

「ありがとうございます、イザベラ様。あなたのような方に理解していただけて、わたくし、心が救われる思いです」

「ふふ、救われるのはわたくしの方かもしれませんわ、アルベルタ様」


 イザベラは俺の手を取り、そっと自分の頬に寄せる。

 その仕草は、まさに『薔薇のしずく』第30章『秘密の誓い』の挿絵そのものだった。


(おお、このポーズ!実際にやられると、こうなるのか。勉強になるな。よし、今度の夜会でエレノア様に絡まれたら、これを使って乗り切ろう)


 俺は、目の前の作者本人を相手に、その人の作品のテクニックを盗もうと必死になっていた。


 一方、イザベラの胸中は、創作意欲で爆発寸前だった。


(書ける……書けるわ!新たな連載、『女学院の麗しき四輪花――秘められた恋の物語』!主人公のモデルは、もちろんアルベルタ様。彼女を巡る、エレノアたちの情熱的な愛の争奪戦……!これこそが、わたくしの求めていた真の文学よ!)


 後日。

 イザベラが執筆し、学院外で大ヒットすることになる小説のせいで、アルベルタという名の美しい淑女は王都全土に知れ渡ることになる。

 この時の俺は、それをまだ知らなかった。


 ただ、四人の令嬢に囲まれ、

「バーティ、今日の紅茶はわたくしが淹れるわ」

「いいえ、わたくしとの剣術の稽古が先よ!」

「アルベルタ様、お疲れでしょう?わたくしの膝を貸して差し上げますわ」

「ふふ、みなさん。アルベルタ様は今、新作のプロット……いいえ、思索に耽っていらっしゃるのよ」


 そんな賑やかな四輪の花に囲まれながら、俺は冷や汗まじりに天を仰いでいた。


(バレろよ……。本当は俺、ドレスの隙間に小説を隠して、日々演技の研究をしてるだけのしがない商人の息子なんだ。誰か一人くらい、俺の演技の裏側にある切実な仕事への情熱に気づいてくれ……!)


 だが、俺の叫びは届かない。

 四輪の花々は、それぞれの誤解をより一層深め、俺という存在を伝説へと押し上げていくのだった。


『薔薇のしずく』は年齢制限ギリギリを責めた描写で人気が出ました

かなり情熱的です



「面白かった!」


「続きが気になる、読みたい!」


「今後どうなるの!!」


と思ったら

下にある☆☆☆☆☆から、作品への応援をお願いいたします!


面白かったら☆5つ、つまらなかったら☆1つ、正直に感じた気持ちでもちろん大丈夫です!


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