第5話:守らねばならぬ方
遠くから見れば身長差百合カップル
王立女学院での生活も数日が過ぎ、俺――アルベルタことアルバート・グレイは、一つ確信したことがあった。
この学院の令嬢たちは、あまりにも物語を信じすぎている。
俺が少し伏し目がちに歩けば「過去に深い傷を負った聖女」になり、地声で短く返事をすれば「寡黙で高潔な騎士道精神の持ち主」になる。もはや俺が何をしても、彼女たちの脳内にある『薔薇のしずくは恋に濡れて』フィルタを通せば、全てが尊いものに変換されてしまうのだ。
(だが、今日こそは……今日こそは普通に過ごしたい。エレノア様には付きまとわれ、シャーロット様には勝負を挑まれる。これ以上の負担は、俺の胃に穴を空けるだけだ)
そんなことを考えながら、俺は学院の隅にある裏庭のベンチを陣取っていた。
ここは荷物の搬入口に近く、華やかな令嬢たちが集まる中央広場からは遠い。商人育ちの俺にとっては、馬車の轍の匂いや、忙しなく働く使用人たちの気配がするこの場所の方が、よほど心が落ち着くのだ。
そこで俺は、一人の少女に出会った。
彼女は、日当たりの悪いベンチの端に、消え入りそうなほど小さくなって座っていた。
淡い栗色の髪を控えめに結び、使い古されているが丁寧に手入れされたドレスを着ている。
リリー・ソーン男爵令嬢。
この学院では珍しい下級貴族の出身であり、その控えめすぎる性格ゆえに、いつもクラスの隅で影のように過ごしている少女だった。
「……あ」
俺と目が合うと、彼女は野うさぎのように肩を震わせた。
「ご、ごきげんよう……アルベルタ・グレイ様。わたくしのような者が、お騒がせして……申し訳ありません」
「いえ、謝る必要などありませんわ。わたくしも、ここが静かで好きなだけですから」
俺は『薔薇のしずく』に書かれていた孤独な少女への慈愛を思い出し、慈しみ深い笑みを浮かべた。
リリーは俺を見上げて、その大きな瞳を潤ませた。
「……本当にお優しいのですね。噂では、エレノア様やシャーロット様と対等に渡り合う、恐ろしいほどお強い方だと聞いておりましたけれど。近くで拝見すると……なんて、なんて儚げな表情をなさるのでしょう」
(え、儚げ?俺が?)
多分、コルセットが苦しくて、少し顔色が悪いだけだ。
「わたくしには分かります。アルベルタ様は、そのお身体の大きさに見合わぬほど、繊細で、傷つきやすい魂を持っていらっしゃる……。周囲の期待に応えるために、無理をして強く振る舞っていらっしゃるのですね?」
リリーは、小さな手を俺の大きな(そして商売のタコができている)手に重ねようとして、躊躇った。
その瞳には、深い同情と、そして自分と同じ孤独の匂いを感じるといった親愛の情が溢れている。
(まずい。この子は、他の二人とはタイプが違う。俺の芝居を、最も都合の良い方向に解釈し始めている)
その時、搬入口の方から激しい馬のいななきと、使用人たちの悲鳴が聞こえてきた。
「危ない!逃げろ!!」
見れば、学院に納入される食料品を積んだ荷馬車の馬が、何かに驚いて暴走していた。
御者は振り落とされ、制御を失った馬車が、物凄い勢いでこちらに向かって突っ込んでくる。
その進路上には――リリーがいた。
彼女は恐怖で足がすくみ、動けなくなっている。
「リリー様!」
俺の身体が、思考よりも先に動いた。
俺はリリーを背後にかばい、一歩前へ出た。
迫りくる暴れ馬。その質量は凄まじく、まともな人間なら逃げ出すところだ。
だが、俺は知っている。
馬を止めるには、逃げてはいけない。相手よりも強く、動じない壁になればいい。
(ドレスが破ける?知ったことか!目の前の命(と、馬車に積まれている高価な食材)を損ねるわけにはいかない!)
俺は地面を強く踏みしめた。
コルセットの締め付けを、腹筋の力で内側から跳ね除ける。
そして、突っ込んできた馬の頭を、俺の太い腕で強引に掴み取った。
「――止まれ!!」
地鳴りのような怒号。
商人として数千人の前で指示を飛ばす時の、腹の底からの声。
凄まじい衝撃が腕を伝う。
だが、俺の足は一歩も引かない。
樽を何個も抱えて船に積み込む日々で鍛えられた広背筋が、馬の突進エネルギーを完全に受け止めた。
ヒヒーンッ!と、馬が天を仰いで立ち上がる。
俺はそのまま、力任せに馬の首を抑え込み、地面にねじ伏せるようにして静止させた。
沈黙。
馬の荒い鼻息と、壊れた馬車の車輪が虚しく回る音だけが響く。
「……ふう。危なかったですね、リリー様。お怪我はありませんか?」
俺は我に返り、すぐに淑女の仮面を被り直した。
だが、遅すぎた。
背後で見ていたリリーは、完全に呆然としている。
(……やってしまった。淑女は素手で暴れ馬をねじ伏せたりしない。今のは、どう見ても港の荷揚げ屋の動きだった。今度こそ、今度こそ正体がバレる……!)
俺は冷や汗を流しながら、言い訳を必死に考えた。
「あ、今の、古流格闘術の……。い、いえ、あまりの恐怖に火事場の馬鹿力が……」
だが、リリー・ソーンの解釈は、俺の予想を遥かに超えていた。
「……ああ」
彼女は、ふらふらと立ち上がり、俺の背中に触れた。
「アルベルタ様……。あなたは、これほどまでに……これほどまでに、心を削って……っ!」
「……は?」
「分かりましたわ。今のは、ご自身の繊細な心を必死で隠し、わたくしを守るために、その貴い命を使い果たそうとされたのですね!?あの細い腕で(※太い)、あんなに恐ろしい獣に立ち向かうなんて……どれほど震えていらしたことか!」
リリーの目から、大粒の涙が溢れ出した。
「わたくし、決意しました。アルベルタ様。あなたは、あまりにも優しすぎて、自分を犠牲にしすぎる。……これからは、わたくしがあなたをお守りします!」
「え、リリー様が?」
身長差は20センチ以上。
素手で馬を止める俺を、影のように細い彼女が守る?
「そうです。わたくしは力はありませんけれど、あなたの心の痛みを分かち合うことはできます!周囲の期待に押し潰されそうなあなたの代わりに、わたくしが楯になりますわ!」
(いやいやいや、物理的な楯としては、俺の方が遥かに頑丈だろ……)
リリーの瞳に宿ったのは、狂信的なまでの保護欲だった。
彼女の中で俺は、超人的な力を持った英雄ではなく、自己犠牲の果てにボロボロになりながら戦う、悲劇のヒロインとして固定されてしまったらしい。
その騒ぎを聞きつけて、エレノア様とシャーロット様が駆けつけてきた。
「アルベルタ!大丈夫なの!?暴れ馬を止めたって聞いたけれど!」
「アルベルタ・グレイ!またわたくしに内緒で、そんな面白い特訓(?)をしていたのね!」
二人が俺に詰め寄ろうとする。
すると、それまで影のように大人しかったリリーが、真っ赤な顔をして二人の間に立ちはだかった。
「お二人とも、お下がりください!アルベルタ様は今、酷いショックを受けていらっしゃるのです!これ以上、彼女に負担をかけることは、このリリー・ソーンが許しません!」
「リ、リリー様?」
「何だか、あの子、凄まじい気迫ね……」
エレノア様とシャーロット様が、毒気を抜かれたように立ち止まる。
俺はリリーの背後で、ただただ呆然とするしかなかった。
(おかしい。何かが、根本的におかしい)
エレノア様には真実の友と懐かれ、シャーロット様には宿敵と狙われ、そしてリリー様には守るべき儚い存在として囲われる。
俺の周囲はもはや、誰がどう見ても男という事実を指摘する余地など、一ミリも残されていなかった。
(バレろよ……。本当は俺、守られる必要なんてないんだ。何でこうなるんだよ。誰か、この理不尽を止めてくれ……!)
俺の心の中のアルバートが絶叫する。
だがリリーは俺の手を優しく握り、「大丈夫ですよ、アルベルタ様。わたくしがそばにいますからね」と、聖母のような微笑みを浮かべるのだった。
身長差かなり好きなんですよね
コルセット君は良い奴だったよ
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