第4話:宿敵認定
宿敵【とも】〈親友〉 みたいな
セント・アグネス王立女学院の朝は、実に優雅だ。
鳥のさえずりと共に目覚め、丁寧な手つきで着付けられ、香草を浮かべた白湯で喉を潤す。
だが、俺――アルベルタことアルバート・グレイにとっては、毎日が、いかにして筋肉を淑女のドレスに収めるかという、物理限界との戦いの時間だった。
(今日もコルセットが悲鳴を上げている。肋骨が折れないのが不思議なレベルだ。母上の特注ドレスでなければ、今頃背中の縫い目が爆発していただろうな)
俺は『薔薇のしずく』を意識した、少し遠くを見つめる儚げな表情で鏡を後にした。今ではもう、意識せずともこの芝居がかった所作ができるようになっている。人間、追い詰められれば何でもできるものだ。
今日の午前中のカリキュラムには、俺が最も密かに期待していた授業があった。
『領地経営学・実務算術』
将来、夫の領地を支えることになる令嬢たちのために、最低限の計算と経営感覚を養うための授業だ。
(ようやく、俺の得意分野だ。これなら『薔薇のしずく』を参考にしなくても、商人としての地力を出せば、ほどほどに優秀な成績が取れるだろう。あまり目立ちすぎず、かつグレイ商会の子女は有能だと思わせる。これこそが本来の潜入目的だ)
俺は静かな意気込みと共に、教室へと向かった。
◇◇◇◇◇
教室に入ると、そこには既に多くの令嬢たちが集まっていた。
その中で一際、鋭い眼差しを教壇に向けている一人の少女がいた。
シャーロット・アシュリー伯爵令嬢。
燃えるような赤髪をポニーテールにまとめ、背筋を真っ直ぐに伸ばしたその姿は、まるで戦場に立つ騎士のような凛々しさがある。彼女はこの学院において、武術と学業の両面でエレノア様に次ぐ、万年二番手として知られていた。
彼女の努力は並大抵のものではない。エレノア様という圧倒的な太陽の影で、誰よりも牙を研ぎ続けているのが、このシャーロットなのだ。
「あら。あなたが、噂のアルベルタ・グレイ様ね」
席に着こうとした俺に、シャーロットが声をかけてきた。その声には隠しきれない対抗心が滲んでいる。
「ごきげんよう、シャーロット様。不肖、わたくしのような者にまでお声をかけていただき、恐縮ですわ」
「ふん、謙遜は無用よ。エレノア様があれほど熱心に引き立てているのですもの。どれほどの実力があるのか、この実務算術の授業で拝見させてもらうわ」
「実力など……。わたくしはただの商家の娘ですから」
俺は営業用の控えめな微笑みを返した。
だがシャーロットの目は笑っていない。彼女にとってこの授業は、自分の得意分野でエレノア様や新参者に差をつけるチャンスなのだろう。
やがて、年配の講師が教壇に立った。
「皆さま、本日は昨今の小麦市場の変動に基づいた、領地の備蓄計画について学びます。では、この例題を解いてみてください」
黒板に書かれたのは、次のような問題だった。
『三つの村から納められる小麦の総量、運搬コスト、保存期間に伴う目減り率、そして近隣都市の市場価格を考慮した際、最も利益を最大化しつつ冬を越すための販売計画を立てなさい』
教室に、小さな悲鳴のような溜息が漏れた。令嬢たちは美しい羽根ペンを握りしめ、眉間に皺を寄せて計算を始めた。
シャーロットもまた、猛然とペンを走らせている。その表情は真剣そのものだ。
(え?これだけ?)
俺は拍子抜けした。
三つの拠点の物流管理?市場価格の変動予測?
そんなもの、グレイ商会では十歳の見習いが最初に叩き込まれる基礎中の基礎だ。むしろ変数が少なすぎて、どこかに引っかけがあるのではないかと疑いたくなるレベルだ。
俺は無意識にペンを動かしていた。
小麦の含水率による劣化?北部の街道の関税?
俺の脳内にある商人の回路が、勝手に最適な数値を弾き出していく。
(……よし、これでいいな。だが令嬢たちの反応を見るに、これは難問らしい。適当に時間を置くか。周りに合わせて書き終えることにしよう)
俺は、頬杖をつきながら窓の外を見た。
今日の夕飯は何だろうか。コルセットのせいで満足に食べられていない。せめて塩漬けの肉ではなく、新鮮な魚が食べたいものだ。ソルトポートなら今頃、獲れたての鯖が安く出回っているはずなのに……。
「……嘘でしょ」
隣から、消え入りそうな声が聞こえた。
見ると、シャーロットが愕然とした表情で、俺のノートを凝視していた。
「あ、アルベルタ……。あなた、もう書き終えたの?まだ授業が始まって3分も経っていないわよ」
「えっ?あ、ああ……いえ、これは、その。ちょっとした下書きでして」
(しまった……!)
ゆっくり仕上げるつもりが、商売の癖で手が勝手に動いて、最適解を網羅した詳細な損益計算書のようなものを書き上げてしまっていた。
「見せて。見せなさい!」
シャーロットが俺のノートをひったくった。
彼女は自分のノート(まだ一項目目の計算の途中だ)と俺のノートを見比べ、顔を青くしたり赤くしたりした。
「……何、これ。運搬コストに『季節による馬の飼料代の変動』まで組み込まれている?それに、この目減り率の予測……。過去10年の天候データを背景にしているというの?学院の教科書には載っていないはずよ!」
「あ、それは商売をしていれば肌感覚として身につくと言いますか……」
「肌感覚!?これだけの複雑な変数を、一瞬で、一切の迷いもなく書き上げたというの!?」
シャーロットの声が静まり返った教室に響き渡った。
講師が近寄ってくる。
「おや、どうされましたかな。おお……!これは……」
講師は俺のノートを手に取り、老眼鏡をずらして絶句した。
「信じられん、完璧だ。それどころか、私が用意した模範解答よりも遥かに精緻で、実利に基づいている。アルベルタさん、あなた、これを計算だけで導き出したのですか?」
「……はい。少し、数字が好きなものですから」
俺は『薔薇のしずく』に書かれていた天才少女の苦悩を思い出し、少し寂しげに微笑んだ。「わたくしにとって、数字だけが嘘をつかない友達でしたの……」と、心にもない台詞を脳内で再生する。
教室が騒然となった。
「すごいわ、アルベルタ様!まるで魔法だわ!」
「あの複雑な問題を、一瞬で……!」
絶賛の嵐。だが、その中で一人、シャーロット・アシュリーだけが、小刻みに震えていた。
彼女は、自分がどれほど努力してきたかを知っている。エレノア様に追いつくために、毎晩睡眠時間を削って算術に取り組んできた自負があったのだろう。
その努力を、この編入してきたばかりの商家の娘は、欠伸を噛み殺しながら、たった3分で踏みにじったのだ。
授業が終わった直後。
俺が教室を出ようとすると、シャーロットが立ちはだかった。
彼女の瞳には、かつてないほどの激しい炎が宿っている。
「……アルベルタ・グレイ」
「はい、シャーロット様」
「認めないわ。あんなの、認めない」
「はあ……」
「あなたは今、わたくしを馬鹿にしたのよ。自分にとって当たり前のことが、わたくしにとっては一生をかけても届かない高みだと言わんばかりの態度で!」
(いや、全くそんなつもりはない。ただの職業病だぞ)
「いいわ。これほど屈辱を感じたのは、エレノア様に剣術で十連敗した時以来よ。アルベルタ・グレイ、わたくしは、あなたを『生涯の宿敵』と定めます!」
「……え?」
宿敵?俺が?
ただのしがない商人の息子が、伯爵家のご令嬢のライバルに?
「これから先、あらゆる分野であなたに勝負を挑ませてもらうわ。学業、作法、そして武術!あなたのような巨大な壁が目の前に現れたこと、今はむしろ感謝しているわ!」
「あの、シャーロット様。わたくしはただ、静かに学院生活を……」
「言い訳は見苦しいわ!さあ、次の時間は剣術の稽古よ。そこであなたの凛々しさの正体を暴いてあげるんだから!」
シャーロットは、マントを翻すような勢いで、颯爽と去っていった。
残された俺は、一人呆然と立ち尽くす。
(宿敵?生涯の?いやいや俺は一年経ったら、この重苦しいドレスを脱いで、王都で塩の取引をする予定だぞ?)
誤解が加速している。
エレノア様には真実を語る友と崇められ、シャーロット様には乗り越えるべき巨大な壁と認定された。
俺の女装潜入して御用商人の座を取る計画は、開始数日にして早くも、学院の重要人物たちを次々と陥落(誤解)させていくという、最も望まぬ方向へと舵を切ってしまった。
(バレろよ……。頼むから、俺がただの算盤の速い男だってことに気づいてくれ……!)
俺の悲痛な叫びは、またしても、「さすがアルベルタ様、宿敵認定されてもあの余裕の表情!」という周囲の勘違いにかき消されていった。
残念だったな、アルベルタ
コルセットとの戦いはまだまだ続くよ
「面白かった!」
「続きが気になる、読みたい!」
「今後どうなるの!!」
と思ったら
↓
下にある☆☆☆☆☆から、作品への応援をお願いいたします!
面白かったら☆5つ、つまらなかったら☆1つ、正直に感じた気持ちでもちろん大丈夫です!
ブックマークもいただけると本当にうれしいです!
なにとぞよろしくお願いいたします!




