第40話:まあ、いいじゃないか
卒業式が終わった後の講堂は、春の柔らかな日差しとは裏腹に、奇妙な熱気と沈黙が混ざり合う不思議な空間となっていた。
俺――アルバート・グレイは、卒業正装である純白のドレスを纏ったまま、もはや作る意味もなくなった地声(本当の声)で一同へ呼びかけた。
「……あの、皆様。本当に、申し訳ございませんでした」
俺は深く、腰が折れるほど頭を下げた。
「一年間、皆様をあざむき続けてまいりました。どのような処分も受ける覚悟です。学院のご判断に従います」
顔を上げると、令嬢たちは困惑したように顔を見合わせていた。やがて、一人が首を傾げて口を開いた。
「……処分、と申しますと?何か、されるような不祥事がございましたかしら」
「いえ、ですから、わたくしは性別を偽って潜入した不審者で――」
「けれど、学費は滞りなくお納めになったのでしょう?」
「……はい」
「講義にも出席し、試験の成績も極めて優秀でいらした」
「……はい」
「学院の破産まで救ってくださいましたわ。……では、一体どこに処罰する理由がございますの?」
俺は絶句した。論理が、俺の知っている商売の世界とは別の地平に飛んでいる。そこへ、コツコツと規則正しい杖の音を響かせてミセス・ホロウェイが歩み寄ってきた。
「グレイさん」
「……はい」
「卒業証書は、確かにあなたのお手元にございますね」
「はい。アルベルタ・グレイの名で」
「ならば、あなたは本学院を正当に卒業した一人の卒業生です」
学監は眼鏡を正し、断固として告げた。
「――以上です。それ以外の結論はございません」
「先生、しかし、入学資格の規定が……!」
「規則は昨夜すべて確認いたしました。当学院の入学要件には『性別』に関する記載は一行もございませんでした。……ええ、この三百年間、そんな条項が必要になったことさえございませんでしたから」
講堂に、どっと笑いが起きた。
(……この学院、どこまでも強引すぎるだろ!)
最初に近づいてきたのは、エレノア様だった。彼女は王太子殿下の隣を離れ、俺の目の前で足を止めた。
「バーティ」
「……エレノア様」
「いえ、アルバート様……とお呼びしたほうがよろしいかしら。……いいえ、やはりバーティですわ。一年そう呼んでまいりましたもの。今さら変えるのは不合理だわ」
「……はい」
彼女は扇子を慌ただしく開閉させ、顔を赤らめて呟いた。
「――困っておりますのよ。わたくし、婚約者がおりますのに。……しかも、すぐそこに立っていらっしゃいますのに」
俺が視線を向けると、王太子殿下はこちらに気づいて軽やかに手を振っていた。
「バーティ。わたくしは卒業後、学院の理事になります。あなたが立て直したこの場所の帳簿を、わたくしが守り、読み解いていきますわ」
「エレノア様……」
「ですから――グレイ商会の若旦那として、毎年納品にいらしてくださいまし。あなた、バレたらもう二度と会えないつもりでいらしたでしょう?」
見透かされた。俺は答えられなかった。
「もう隠すものは何もございませんわ。男の商人が御用聞きとして女学院へ立ち入る。……商売として、一点の曇りもない当然の光景でしょう?」
彼女の微笑みは、力強く美しかった。
バレたことで失ったのではない。バレたことで、俺は再びこの門をくぐれるようになったのだ。
その時、王太子が「エレノア、顔色が悪いぞ」と近づいてきた。
「いいえ、殿下。少々立ち眩みがしただけで――」
「そうか。ああ、そういえば先ほどの排水設備の話の続きだが、石造りの導水管は――」
エレノア様が、絶望に扇子を取り落とした。俺は即座に拾い上げ、殿下へ進言した。
「殿下。排水の更新でしたら南部の砂岩をお勧めします。工期が短縮され、人足の日当を三割カットできますわ。導水管の勾配については――」
「勾配!そうだ、余もそれを申したかった!君、やはり財務府に来ないか!」
――そこから、また半刻。俺と王太子がインフラ投資の話で盛り上がっている間、エレノア様は両手で顔を覆い、静かに石像のようになっていた。
次に来たのはシャーロット様だった。彼女は俺の腕を不躾に掴むと、その二の腕を強く握った。
「……カチカチね。アルバート、あんたこれ、本当に書類だけで鍛えたの?」
「……樽です。港で毎日、五十個は担いでおりましたので」
「樽!あはは、道理で勝てないわけだわ!腕力が馬力の違いだったのね!」
彼女は悔しそうに頭を抱えたが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。
「二年後よ、アルバート。今度は男と女、対等に勝負しましょう。……あんたは、わたくしが勝てなかった唯一の『好敵手』なんだから!」
リリー様は講堂の隅でずっと俯いていた。俺が自分から歩み寄ると、彼女は真っ赤な目で顔を上げた。
「バーティ様……。わたくし、怒っているのではないのです。ただ……悔しいのですわ。わたくしがあなたをお守りすると豪語しておきながら、あなたが抱えていた最大の孤独に、気づいて差し上げられなかった」
「リリー様。あなたは、俺が疲れていることに唯一気づいてくれた人です。理由はどうでもいい。扉の外で三時間見守ってくれたあの温かさがあったから、俺は今日まで『アルベルタ』でいられたんです」
リリー様はわっと泣き出し、俺の腰にしがみついた。
「男の方でもお疲れになるのは同じですわ!わたくし、これからも……グレイ商会のバーティ様をお守りし続けますわ!」
そして最後。イザベラ様は床に座り込んだまま、ぐしゃぐしゃの顔で俺を見上げた。
「アルバート様。これ、約束の新作ですわ……」
受け取った本を見つめ、俺は謝罪を口にした。だが彼女は首を振った。
「一つだけ確かめたいの。あなたがわたくしの本を『教科書』と呼んだのは、そのままの意味なの?」
「……はい。喉仏を隠す扇子の角度から、沈黙の挟み方まで、すべて参考にさせていただきました」
「――私の物語は、完璧な女装マニュアルだったということね!!」
彼女の絶叫が講堂に響き、三度目の大爆笑が起きた。
「三十回書き直したあの三行を……喉仏を隠すために……っ!いいわ、決めました。次の題名は『わたくしの本で完璧に女装した男の話』よ!もちろん、一割の手数料はお支払いしますわよ!」
最後に、ヴィクトリア様が近づいてきた。
「グレイ様。わたくし、あなたの腕力は書類のせいだと言い切りましたわね」
「……はい。樽でした」
「ふふ、十年帳場に座って、人を見る目には自信があったのですけれど……見事に外れましたわね」
彼女は深く息を吐き、静かに一礼した。
「……二年後の約束、楽しみにしておりますわ。学生代表という皮を脱ぎ捨てて、価格と実力で。……お待ちしております、アルバート・グレイ」
日が傾き、長い影が講堂に落ちる頃。
俺は門の前でのんきに空を眺めていた母・マーサの元へ辿り着いた。
「母上。……なぜ、講堂であんなに堂々と俺の本名を呼んだんですか。一年隠し通したのに」
「何だい、自分の息子の名前を呼んで何が悪い。隠す理由なんて、もうなかっただろう?」
母上はあっけらかんと言い放つと、俺の背中をバシィィィン!と叩いた。
「――まあ、いいじゃないか。座は取った、学校も出た。誰一人、あんたを犯罪者扱いなんてしていない。なら、万事『結果オーライ』だよ」
俺は一瞬ポカンとして、それから腹の底から笑い出した。
一年間。喉に布を巻き、肩を盛り、偽りの声と偽りの歩幅で、バレる恐怖に怯えていたあの日々は、この豪快な母の一言で綺麗さっぱり「過去の些事」へと還元されてしまった。
「ああ、アルバート。王都に支店を出すことにしたよ。あんたが店長ね」
「――は!?ちょっと待ってください、人手は!?倉庫は!?」
「これから考えるさ!じゃあ帰るよ、馬車が待ってる!」
母上は自分の荷物をひょいと担ぎ、大股で歩き出した。俺は慌ててその後を追う。
「母上!二年かけて整えるって言いましたよね!?」
「じゃあ二年でやり遂げな!」
駆け出す俺の背後に、講堂の扉が開く音が聞こえた。
振り返ると、四人の少女たちが立っていた。
扇子を優雅に振るエレノア様、腕を組んで不敵に笑うシャーロット様、両手を力いっぱい振るリリー様、そして手帳を高く掲げるイザベラ様。
俺は、一年ぶりに男の礼で、背筋を伸ばし、深く頭を下げた。
そして、ソルトポートへ、そして新しい王都の戦場へと続く道を、大股で走り出した。
その夜。
久しぶりにシャツとズボンを身に纏い、ソルトポートへ向かう馬車に揺られていた。隣では母上がいびきをかいて寝ている。
ふと、自分の身体の違和感に気づいた。
俺は、ズボンを穿いているというのに、膝の上でしとやかに両手を揃えて座っていた。
――一年かけて身体に刻まれた、あまりにも完璧な令嬢の座り方。
俺は苦笑し、それを直そうとして……やめた。
たぶん、これは一生直らない。
――まあ、いいじゃないか。
春の月明かりの下、馬車はガタゴトと、潮の匂いがする故郷へ向けて進んでいった。
(本編完)
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