幕間7:四輪花、それぞれの春
◆エレノア・ヴァンス
わたくし、一つだけ嘘をついたわ。
あの日、講堂で「最初から、なんとなくそうかもしれないと思っていた」と申し上げたの。あれ、嘘ではないのよ。
――けれど、「なんとなく」でもなかったわ。
一度だけ、はっきり確信に近いものを抱いたことがあるの。最初のお茶会。あの方がお茶を淹れる手つきを見ていた時よ。あの、不慣れなふりをして隠しきれていなかった、熟練した無駄のない手つき。
(……この方、まるで男装の――いいえ、女装の……)
そこまで考えて、わたくしは即座に思考を打ち消したの。
なぜだと思って?
――考えたくなかったからよ。
あの方は、わたくしに『真実』をくださる、たった一人の方だったから。家柄も美貌も関係なく、物の本質を語ってくれるその方に、わたくしから嘘を暴くなんて真似、できるはずがないでしょう。もしその化けの皮を剥いでしまったら、わたくしの世界から「本当の言葉」が消えてしまう……。そう思うと、恐ろしかったの。
わたくしは春から理事になるわ。ヴァンス家は二百年理事を出していなかったけれど、父は「お前がやりたいならやりなさい」と背中を押してくれたわ。帳簿は読める。バーティが半年かけて、泣きたくなるほどのスパルタで叩き込んでくれたもの。
殿下には、まだ何も申し上げていないの。
いえ、正確に言うと、卒業式の後に殿下がこうおっしゃったわ。
『エレノア。あのグレイという者、面白い男だな。そなた、あの者と親しかったのか』
『――一年、ずっと隣におりましたわ』
『そうか。……よい友を得たな』
それだけ。殿下は何も疑っていらっしゃらないわ。ええ、疑うようなことなんて何もございませんもの。わたくしには婚約者がおりますし、あの方は商人ですし、住む世界が違いますわ。
――何も、申し上げていないのよ。
ただ、一つだけ。殿下があの方と排水設備の話で盛り上がっていた、あの半刻。わたくし、あの時間のことは一生忘れないと思うわ。
人生で一番、自分がどこに立てばいいのか分からなかった、最高に居場所のない半刻でしたもの。
◆シャーロット・アシュリー
わたくしだけ、本当に気づいていなかったのよ。結構みんなに笑われるの。「シャーロット様、あれだけ毎朝ご一緒でしたのに」って。
仕方ないじゃない。わたくし、あの人の顔なんて見ていなかったのよ。見ていたのは、答えを出す速さと、構えの隙のなさだけ。性別?そんなもの、算術や剣戟のどこに映るというのよ。
……いえ、正直に言うわ。一度だけ、変だと思ったことはある。演習場で、あの人がわたくしの剣を弾き返した時。あの力は、確かにおかしいと思ったわ。でも、その時わたくしが考えたのは「どうすればこの城壁を崩せるか」だけ。なぜ城壁がこれほど硬いのか、なんて考える暇は一秒もなかったのよ。
わたくしは一年間、ずっと本気だった。本気だったから、それ以外のものが目に入らなかった。それを悪いことだとは思わないわ。
二年後、もう一度勝負するの。剣でも、算術でも、あるいはその両方でもいいわ。あの人は港で樽を担いでいるそうだから、今頃また筋肉がついているでしょうね。だからわたくしも、負けないくらいに鍛えるの。今度は「女だから負けた」なんて言い訳を、自分にすらさせないために。
――ねえ、アルバート・グレイ。あなた、わたくしの人生で初めて「勝てない」と思わせた相手よ。その相手が男だったから何だというの。勝てないほど強い事実に、変わりはないじゃない。
だから、勝つまで挑むわ。……覚悟しておきなさい。
◆リリー・ソーン
わたくし、一つだけ後悔していることがございますの。
一年間、わたくしは「バーティ様をお守りする」と申し上げ続けておりました。けれど、本当にお守りしなければならなかったのは、あの方の孤独な秘密でしたのね。
あの日、講堂で皆様が「道理で背がお高いと」「道理でお声が低いと」とおっしゃった時、わたくし、寒気がいたしましたの。皆様、気づいていらしたのですわ。気づいていて、一年間、ずっと黙っていらした。それは上品な優しさかもしれませんけれど、同時に――誰もあの方の本当の姿に、手を差し伸べなかったということでもございますわね。
わたくしも同じです。あの方が疲れていることに気づいていながら、理由を尋ねることもしませんでした。扉の外に三時間立って、それで守ったつもりになっておりましたわ。……本当に誰かを守るというのは、たぶん、そんな簡単なことではございませんのね。
春から、わたくしは家の帳面をつけますの。数字は苦手ですけれど、もう逃げないと決めました。ソーン家の借金は、あと六年で返せる見込みです。
その時、もし可能でしたら……一度だけ、ソルトポートという町を見てみたいと思っておりますの。バーティ様が故郷のお話をなさる時だけ、お声が少しだけ柔らかくなりましたもの。あの方が生きてきた景色を、この目で見てみたい。
……それだけです、今は。
◆イザベラ・クレイン
わたくし、新作を三度書き直しましたの。
『別れの春』は、もう刷ってしまいましたわ。あれは、あの日までの「アルベルタ様」の記録。問題は、その次ですわ。
最初、わたくしは『わたくしの本で女装した男の話』を書こうといたしました。三日で二十枚書いて、すべて破り捨てましたわ。笑い話として、面白すぎたからですの。そんなものを出せば、王都中が爆笑する大ヒットになるでしょう。けれど、それではあの一年がただの喜劇になってしまいますもの。
二度目は、真面目に書こうといたしました。身分を偽り、孤独に耐える者の苦悩。けれど五日で四十枚書いて、これも破りました。嘘だったからですの。あの方は、わたくしが想像したような悲劇の中にいらしたわけではございませんでした。あの方はただ、毎日必死に商売のことを考え、誰かのために帳簿を読んでいらしただけ。
三度目に、わたくしはようやく気づきました。――わたくしには、あの方を書くことはできません。一年隣にいて、密着取材までしたというのに、わたくしはあの方の商人の魂を何一つ理解していなかった。わたくしは、人を書けるつもりでおりましたけれど……まだまだですわね。
ですから、次の作品は完全な空想の物語にいたしますわ。わたくしが初めて、自分の頭だけでつむぎ出す、誰のモデルもいない物語。書けるかどうかは分かりませんけれど。
――ただ、一つだけ。あの方に嘘をついておりますの。
音楽室で耳を塞いだあの日。「作家である前に、友人ですもの」と申し上げましたわね。あれ、半分は嘘ですのよ。
本当は、怖かったのですわ。真実を聞いてしまったら、わたくしの理想のヒロインが消えてしまうことが。好奇心より友情を選んだのではなく、好奇心より臆病が勝っただけですわ。……作家として、実に情けない告白ですわね。
◆ヴィクトリア・アシュフォード
二年後に会うわ。それだけよ。
あ、でも一つだけ、父に手紙を書いたわ。今度は四半期ごとの定例報告の末尾に、たった一行だけ添えて。
『あの学生代表は、男でした』
数日後、父から届いた返事はこう。
『それで、人柄は書けるようになったのか』
……。
やっぱり、父には一生敵わないわね。
(完)
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