第38話:打ち明けるべきか
卒業式まで、あと三日。
俺――アルベルタことアルバート・グレイは、深夜の自室で机に向かっていた。
目の前には、真っ白な紙が一枚。
羽根ペンを握りしめてから、すでに一時間が経過していた。だが、いまだに最初の一文字すら書けていない。
書こうとしているのは、告白の信書だ。エレノア様、シャーロット様、リリー様、そしてイザベラ様。あの四人に宛てた、最後の手紙。
内容は、とうの昔に決まっている。
『わたくしは男です。名をアルバート・グレイと申します。グレイ商会の跡取りですが、契約上の理由によりやむを得ず女装して潜入いたしました。一年間、皆様をあざむき続けておりましたこと、心よりお詫び申し上げます』
ただ、それだけを書けばいい。四人分認めて、式の後にそっと渡すか、あるいはこの部屋に置いていけば済む話だ。
だが、俺の指先は石のように固まったまま動かない。
(無理だ、書けない)
理由は、自分でも呆れるほどはっきりしていた。
怖いのだ。
俺は椅子の背にもたれかかり、暗い天井を見上げた。
一体、何が怖いのか。
最初に浮かんだのは、身分を偽って王立学院に潜入した罪に対する罰だった。だが、そんなものは大した恐怖ではない。今さら明かしたところで、もう御用商人の座は決まっているし、俺が学院の財政を立て直したという功績も消えはしない。処罰されたとしても、商会に実害が及ぶことはないだろう。
では、本当は何に怯えているのか。
俺は、心の奥底に隠していた一番見たくない答えに、ようやく辿り着いた。
――あの四人の顔が、変わるのが怖いのだ。
エレノア様が俺を見る熱い眼差し。
シャーロット様が俺を呼ぶ凛とした声。
リリー様が俺を守ろうと前に出る小さな背中。
イザベラ様が俺を観察する鋭い視線。
この一年、嘘の上に積み上げられてきた、あの美しくも騒がしい絆。俺が真実を口にすれば、それらが一瞬にして崩れ去る。
いや、崩れるだけならまだいい。
問題は、その後だ。
あの方々は、俺を怒るだろうか。軽蔑し、変態不審者として罵るだろうか。
(……いや。あの人たちは、許すだろうな)
そう思った瞬間、心臓を鷲掴みにされたような痛みが走った。
エレノア様は混乱しながらも「事情がおありだったのね」と微笑むだろう。
シャーロット様は一喝した後で「で?算術の結果に性別が関係あるの?」と鼻で笑うだろう。
リリー様はわっと泣き出して「どれほどお辛かったことか」と俺の手を握るだろう。
イザベラ様は絶叫した直後に「新作のプロット、全面的に書き直しですわ!」と手帳を広げるだろう。
――全員、俺を許してしまう。
それが、今の俺には一番恐ろしかった。
嘘をついて、一年間騙し続けて、その上で許されて。そのまま来月にはソルトポートへ逃げ帰り、二度と会わない。
それは、最初から最後まで、卑怯者の逃げでしかない。
翌日。俺はミセス・ホロウェイに学監室へと呼び出された。
彼女の机の上には、真新しい書類が並んでいる。
「グレイさん。卒業証書の最終確認です。お名前に間違いがないか、ご確認なさい」
俺は、うながされるまま書類を覗き込んだ。
『アルベルタ・グレイ』
そこには一年前、母上が即興で作り上げた、この世に存在しない人間の名前が記されていた。伝統ある王立学院の公式な証書に、凛としたカリグラフィーで刻まれている。
「……ホロウェイ先生。この名前は……」
「あなたのお名前ですわ」
「……はい」
俺は、顔を上げることができなかった。胸の詰め物が、かつてないほど重く感じられる。
「グレイさん。わたくしはこの学院に三十年おります。その間に、千枚以上の卒業証書を書いてまいりました」
「……はい」
「そのうちの何枚かは……書いていて、少々おかしな心地がすることもございました」
俺は息をのんだ。学監は眼鏡を外し、布で静かにレンズを拭き始める。
「けれど、わたくしの仕事は、卒業なさる方の名を正しく書くことです。それ以上のことは、いたしませんのよ」
彼女は再び眼鏡をかけ、俺をまっすぐに見据えた。
「グレイさん。あなたは、この学院を救いました。それは揺るぎようのない事実です。他の何があろうと、その価値が動くことはございません」
彼女は書類を丁寧にそろえ、静かに告げた。
「――ですから、胸を張ってお受け取りなさい」
俺は深く、深く頭を下げた。喉の奥が熱くなり、何も言えなかった。
学監室を出て、春の気配が混じる廊下を歩きながら考える。
あの人は、気づいているのか。いや、確信は持てない。「おかしな心地」と言っただけだ。名前の響きの話かもしれないし、俺の低い声のことかもしれない。
だが、もしすべてを知っていて、その上で一年間、何も言わずに見守ってくれていたのだとしたら。
俺は、足を止めた。
三百年、どんぶり勘定で破産しかけ、紅茶の香りで取引先を切り捨て、価格の裏側も読めなかった、この浮世離れした学院。
だが、その学院は、嘘つきの俺を御用商人として選び、そしてたぶん、俺の嘘を飲み込んだまま救世主として送り出そうとしている。
その夜。俺は再び、机に向かって羽根ペンを取った。
――書け。あと二日で卒業だ。今書かなければ、一生機会を失う。
ペン先をインクに浸す。黒い液体が紙に落ちる。
(……明日にしよう)
俺はペンを置いた。
翌日。卒業式まであと二日。
俺はまた、机に向かった。そして、またペンを置いた。
(……式の後で、直接言えばいい)
そして、卒業式の朝。
俺の手元には、一文字も書かれていない真っ白な紙だけが残っていた。
母上から届いたドレスに袖を通しながら、俺は自分自身に卑怯な言い訳を繰り返していた。式の後で四人を呼び止めて言おう。そのほうが誠実だ。手紙なんかより、ずっといいはずだ。
鏡の中の自分を見る。
喉に布を巻き、肩に詰め物を入れ、一年かけて完璧に仕上げられた偽物が、悲しげにこちらを見ていた。
――嘘だ。俺は式の後も、言わない。
式が終われば、別れの挨拶をして、馬車に飛び乗れば終わりだ。誰も傷つかず、誰も怒らず、俺はそのまま伝説の少女として逃げ切れる。アルベルタ・グレイという幻影は、今日をもってこの世から消え、二度と誰にも捕まえられない。
俺は、鏡から目を逸らした。
バレろよ。
なあ、頼むよ。
一年間、俺はそう叫び続けてきた。だが今日、それが真っ赤な嘘だったと悟った。
俺は、バレたくなんてなかったのだ。
バレてほしいと願いながら、バレないように喉を締め、肩を盛り、完璧に化け続けた。本気でバレたいなら、地声で笑えばよかった。大股で歩けばよかった。
だが、一度もやらなかった。
――俺は、最初から最後まで小物だったのだ。
学院の全員を騙し続け、誰にも正体を悟らせず、最後の一歩で逃げ出す。
「誰か気づいてくれ」なんて嘆く資格は、俺には一ミリもなかった。
その朝、俺は実家の母上への手紙に、今日一番の屈辱を書き記した。
『母上。本日、卒業式です。
ドレス、届きました。少し肩周りがきついですが、無事に着られました。
――母上。
結局、俺は何も言えないまま終わります。このままアルベルタとして帰ります。
期待を裏切る、意気地なしの息子で申し訳ありません。』
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