第37話:四人の告白未遂
卒業式まで、あと十日。
その日から、四人の様子が同時多発的に、そして決定的におかしくなった。
――いや、正確に言えば、四人がそれぞれの理由で、別々におかしくなったのだ。
口火を切ったのは、シャーロット様だった。
朝の演習場。木剣を振り終え、共に呼吸を整えていた時のことだ。彼女はいつもより長く、重々しい沈黙を保っていた。
「……アルベルタ」
「はい。いかがなさいました」
「話があるわ」
彼女は木剣を握ったまま、一度もこちらを向かなかった。
「わたくし、あなたに言っておかなければならないことがあるの。……一年前のことよ」
「一年前……?」
シャーロット様はそこで言葉を止めた。
俺は待った。商談で相手が決定的な一言を繰り出す前の、重苦しい溜めの時間だ。十を数える間、砂を噛むような沈黙が続いた。
「……シャーロット様?」
「――いいえ」
「はい?」
「やっぱり、なんでもないわ。忘れて」
彼女は乱暴に木剣を鞘に納めた。
「あの、シャーロット様。もし何か気に障ることでもあったのでしたら……」
「なんでもないと言っているでしょう!この……大馬鹿者が!!」
彼女は顔を真っ赤にして怒鳴ると、風のように演習場を走り去っていった。
俺は、朝日に照らされた砂の上で一人、呆然と取り残された。
次はエレノア様だった。
月曜日の図書室。経営講義はすべて修了しているため、今はただの静かな茶会である。だが、彼女は紅茶を三杯おかわりする間、一言も喋らなかった。
「……エレノア様、本日はお加減でもよろしいのですか?」
「いいえ」
「そうですか……」
「バーティ」
「はい」
「わたくし、あなたに……」
彼女はそこで、自ら言葉の蓋を閉じた。
そして、扇子を開いては閉じ、閉じてはまた開く。指先が微かに震えているのが分かった。
「エレノア様」
「……いいえ、なんでもございませんの」
「ですが、今何かを」
「なんでもございませんわ!」
彼女は弾かれたように立ち上がった。
「本日は、これで失礼いたしますわね。……ごきげんよう!」
逃げるような足取りで退出する公爵令嬢。テーブルには、温もりを失いかけた二つのティーカップだけが残された。
三人目は、リリー様である。
水曜日の談話室。彼女は俺の真正面に座り、両手を膝にそろえた。そしてそのまま、三十秒ほどじっと、吸い込まれるような瞳で俺を凝視した。
「……リリー様?」
「バーティ様。わたくし、ずっと申し上げたかったことがございますの」
「はい。どうぞお話しください」
彼女の白い肌が、みるみるうちに林檎のように赤く染まっていく。
「あの、その、わたくし……バーティ様のことを……」
「はい」
「バーティ様のことを、その、……――お慕い、しております!!」
俺は、思わず椅子から転げ落ちそうになった。
「リ、リリー様!?」
「あっ」
彼女は両手で顔を覆い、取り乱したように叫んだ。
「い、いえ、違いますの!今のは、その、間違いですわ!」
「間違い、なのですか?」
「そうですわ!お慕いというのは、その、高度な『尊敬』という意味で!そう、商いの神様を拝むような気持ちですわ!」
「……そうですか。光栄ですわ」
「今の言葉は、忘れてくださいまし!忘却してくださいませぇぇ!!」
彼女は脱兎のごとく立ち上がり、談話室から走り去った。俺は椅子に座り直しながら、冷や汗を拭った。
(……尊敬。本人がそう言っているのだから、そういうことにしておこう。……そうでなければ、俺の心臓が保たない)
四人目は、イザベラ様だった。
木曜日、旧校舎の音楽室。彼女は埃を被ったピアノの前に、静かに座っていた。
「アルベルタ様。……わたくし、あなたに嘘をついておりましたわ」
一年前、彼女が正体を明かしたあの日と同じ台詞に、俺は身構えた。
「……何でしょうか」
「新作の題名のことですわ。『別れの春』」
「ええ、実に見事な一作でしたわね」
「思いつきで決めたと申しましたけれど……あれは嘘ですの。理由は、明白でしたわ」
静かな音楽室に、窓の外の鳥のさえずりが響く。
「アルベルタ様。あなた……この学院から、いなくなりますわね」
俺の心臓が、ドクンと跳ねた。
「卒業ですから、当然ですわ。御用商人として……」
「そうではございませんわ」
イザベラ様は俺を真っ直ぐに見据えた。
「皆様、これからも会えると喜んでいますけれど……あなたは来ませんわね。商会の跡取りとしてでも、御用商人としてでも、あなたは二度と、この門をくぐらないつもりでしょう?」
「……なぜ、そう言い切れるのですか」
「作家ですもの。わたくし、あなたの所作と言葉を一年間、数え続けておりましたから」
彼女は立ち上がり、ゆっくりと距離を詰めた。
「エレノア様にも、シャーロット様にも、リリーにも。……皆様が『これからも』と未来を語るたび、あなたは微笑んで頷くだけ。一度だって、『また会いましょう』とは口になさいませんでしたわね」
「……」
俺は拳を握りしめた。この人は本当に、どこまでも真実に近づいてくる。そして、最後の一歩で必ず、俺という偶像を追い詰めるのだ。
「イザベラ様。わたくしは……本当は」
俺は、口を開いた。
同じように名前や顔を偽って生きてきたこの人になら、本当のことを話してもいいのではないか。そんな甘えが、胸の底から湧き上がった。
「わたくしは、本当は――」
「――おやめになって」
鋭い言葉が、俺の告白をさえぎった。
顔を上げると、イザベラ様は両手で自分の耳を強く押さえていた。
「イザベラ様?」
「聞きませんわ。わたくし、何も聞きませんの」
彼女の声は震えていた。
「あなたが何を隠していらっしゃるのか、わたくしには分かりません。……けれど、それを今おっしゃったら。……あなた、今この瞬間に、この学院からいなくなるでしょう?」
俺は息を呑んだ。
「卒業式まで、あと十日ですのよ。……十日くらい、嘘をついたままでいてくださいまし。それが、わたくしへの……『代理人』としての誠意ですわ」
音楽室が、耳が痛くなるほどの静寂に包まれた。
俺は何も言えなかった。この人は分かっているのだ。中身が何であるかは知らない。けれど、真実が明かされた瞬間に、この美しくも危うい「四輪花」の物語が終わってしまうことを、正確に予見していた。そして、それを止めてくれたのだ。
「……イザベラ様。あなたは、それでよろしいのですか」
「よろしくなどございません。作家としてこれ以上の『ネタ』はありませんもの。喉から手が出るほど、あなたの秘密を暴き、書き殴りたいですわよ」
彼女はそう言って、いつもの涼やかな微笑みを浮かべた。
「けれど……友人ですもの。作家である前に、一人の友人として、あなたの隣にいたいのですわ」
俺は深く、頭を下げた。顔を上げることができなかった。
その夜。自室で一人、俺は四人のことを考えていた。
シャーロット様は言いかけてやめ、エレノア様は飲み込み、リリー様は尊敬にすり替え、イザベラ様は俺の口をふさいだ。
全員が違う理由で何も言わず、そして俺も何も言わなかった。
バレろよ。
なあ、頼むよ。
今日、俺は自分から正体を明かそうとしたんだ。なのに、この学院の人たちは、それを全力で許してしまった。
気づいてくれと一年叫んできた俺を、彼女たちの沈黙が、優しく包み込んでしまった。
この学院は、どこまでも俺を離してくれない。
その夜、俺は実家の母への手紙に、今日一日の重すぎる感情を書き記した。
『母上。卒業式まで、あと十日です。
本日、ついに正体を明かそうとしましたが、拒まれました。
俺の言葉は、届く前に彼女たちの優しさに遮られました。
――母上。
俺はたぶん、卒業式までこの「アルベルタ」を脱げそうにありません。
商人として、あまりに情けない敗北です。』
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