第36話:残り、一ヶ月
卒業式の準備が始まったのは、三月に入ってすぐのことだった。
大講堂には華やかな幕が張られ、手入れの行き届いた庭の植木は春の芽吹きを待つばかり。令嬢たちの話題は、もっぱら当日のドレスと、卒業後の進路の話で持ちきりになった。
俺――アルベルタことアルバート・グレイは、その浮き足立った光景を、次期予算会議の最終書類を抱えて眺めていた。
「バーティ!こちらへいらして!」
「はい!今、参りますわ!」
エレノア様に呼ばれ、俺は中庭の円卓へ向かった。そこには四人が集まり、色とりどりの生地見本を広げている。
「当日のドレス、もうお決めになりましたの?」
「いえ、まだ……」
「まあ!あと一ヶ月ですのよ!今からでは仕立てが間に合いませんわ、バーティ様!」
リリー様が悲鳴のような声を上げる。
「実家に手配を頼んでありますので、ご心配なく」
半分は嘘である。母上に「卒業式用に一着送れ」と手紙は出したが、返事はない。たぶん、当日直前に「やってみて駄目だったらその時考えな」という言葉と共に、規格外にデカいドレスが届くのだろう。
「ねえ、バーティ。この色、あなたにとても似合うと思うのですけれど」
エレノア様が淡い菫色の生地を持ち上げ、俺の肩に当てた。四人が、品定めをするような、けれど確かな熱を帯びた瞳で俺を凝視する。
「……似合いますわね」
「ええ、とても」
「バーティ様、本当にお綺麗ですわ……」
俺は曖昧に微笑み、その場をやり過ごした。
――この一年、毎日この会話を繰り返してきた。最初は生地を当てられるたびに、肩幅の広さがバレるのではないか、胸の詰め物がずれるのではないかと冷や汗をかいたものだ。
だが今は、何も感じない。
慣れというのは恐ろしい。あるいは、俺の中のアルベルタという仮面が、もはや皮膚の一部になってしまったのか。
その日から、俺の日常は少しずつ、砂時計の砂が落ちるように終わりへと向かい始めた。
――月曜日。
エレノア様との経営講義は、複式簿記の最終試験だった。彼女は俺が用意した複雑な練習問題を、わずか四半刻で解き終えた。
「……終わりましたわ、バーティ」
「拝見します」
俺は答案を精査した。全問正解。それどころか、計算の過程には無駄がなく、実務家としての美しささえ備わっていた。
「エレノア様。……もう、わたくしが教えることは何もございません」
彼女の手が、ぴたりと止まった。
「半年ほど前、あなたは利益の意味さえご存じなかった。けれど今は、この学院の帳簿を一人で読み解き、導くことができます。……理事として、これ以上ないほど十分な実力ですわ」
エレノア様はしばらく答案を見つめていたが、やがてそれを大切そうに胸に抱いた。
「……バーティ」
「はい」
「わたくし、王妃になりますのよ。国一つを背負い、回していく身ですわ。……ですから、学院一つくらい、なんとかしてみせます。だから……」
彼女は顔を上げた。その眼が、微かにうるんでいる。
「……安心して、卒業なさいまし」
俺は言葉に詰まった。
この人は気づいている。俺が座を取った後、この学院に残らないことを。御用商人として納品に来るのは、俺ではないことを。
……いや、彼女は「商家の娘アルベルタ」が去ると思っているだけだ。その中身がアルバートであることまでは、まだ知らないはずなのに。
――火曜日。
演習場の砂の上で、シャーロット様が木剣を構えていた。
「アルベルタ。今日で最後の勝負よ。区切りをつけるわ」
算術十問。剣を振りながら、全力でのぶつかり合い。
結果は――八対二。
彼女は八問、俺より速く正解を叫んだ。
最後の一問を終え、彼女は木剣を砂に突き立てた。肩で激しく息をしながら、彼女は顔を上げた。
「……八対二。わたくしの、勝ちね」
「はい。完敗ですわ」
彼女はそのまま座り込み、砂を握りしめた。一年前、一問も勝てずに悔し涙を流していた背中が、今は大きく見える。
「……アルベルタ。あなた、手なんて抜いていないわね?」
「抜く余裕などございませんでした。……正直、とても悔しいですわ」
シャーロット様は、冬の空に響くような声で笑った。
「ならいいわ!卒業しても算術は続ける。あなたがいなくても、わたくしは一人で高みへ行くわ。……いつか、絶対にあなたを追い越してやるんだから!」
――水曜日。
リリー様が、一通の封筒を俺に差し出した。ソーン男爵からの、心温まる感謝状だった。石灰の契約は盤石となり、借金の借り換えも無事に済んだという。
「バーティ様。わたくし、卒業したら、実家の帳簿をわたくしがつけますわ。お父様に頼みましたの。……二度と、あなたのような方に、三晩も不眠不休で働かせるような真似はさせたくありませんもの」
彼女は以前のような、守られるだけの小鹿ではなかった。
「他人の家の帳面を読むのは、面白いものですわよ。リリー様」
「まあ!バーティ様、そんなこと仰るのあなただけですわ!」
彼女の屈託のない笑い声が、談話室に優しく響いた。
――木曜日。
イザベラ様は、原稿の代わりに一冊の完成本を持ってきた。
『女学院の麗しき四輪花――別れの春』
「……もう、できあがったのですか」
「ええ。これは見本ですわ。卒業式の当日に、あなたにお渡しします」
「なぜ、今日ではないのですか?」
「その日でないと、物語が完成しませんもの」
彼女の涼やかな微笑みには、すべてを見透かしているような、不思議な静けさがあった。
――金曜日。
全員での会食が終わり、賑やかな四人が去った後。俺は一人で中庭に残った。
俺が設計を直させ、材質を変えさせた花崗岩の噴水が、春の柔らかな日差しを浴びて水を噴き上げている。
あと一ヶ月。
俺はベンチに座り、膝の上でそっと手を組んだ。
(……終わってほしくない)
唐突に浮かんだその思考に、俺自身が一番驚いた。
何を言っているんだ。俺は男だ。商人だ。ソルトポートに帰って、シャツをまくり上げ、樽を担ぎ、荒くれ者たちの中で塩を売るのが俺の人生のはずだ。
この苦しいコルセットも、喉を締め付ける布も、一日中演じ続ける嘘も、すべて早く脱ぎ捨てたかったはずなのに。
いつの間にか、俺の身体は「令嬢の座り方」を、最も心地よいものとして記憶してしまっていた。
バレろよ。
なあ、頼むよ。
……いや、もういいんだ。
この一年、俺は毎日そう願ってきた。誰か気づけ。この不自然さに気づいてくれと。
だが、あと一ヶ月で全部終わるという今、俺は初めて「終わってほしくない」なんて、商人として最も不合理な感情を抱いている。
誰か、目を覚ませと言ってくれ。
俺は、世界で一番の嘘つきなんだぞ。
その夜、俺は実家の母への手紙に、今日一番の震える本音を書き記した。
『母上。卒業式の日取りが決まりました。ドレスの手配、よろしくお願いします。
――母上。一年という月日は、商売の相場を動かすには十分な時間でした。
そして、一人の人間の心根を、取り返しのつかないほど変えてしまうにも、十分すぎる時間だったようです。どちらも、本当のことです。』
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