第35話:結果
三日後の朝。冬の冷気が満ちる大講堂に、学院の全員が集められた。
俺――アルベルタことアルバート・グレイは、生徒席の末端に身を縮めて座っていた。隣にはリリー様、その隣にエレノア様、シャーロット様、イザベラ様と、いつもの面々が居並んでいる。だが、今日ばかりは四人とも、俺以上に殺気立った緊張を漂わせていた。
「バーティ様……お手が氷のように冷たいですわ」
リリー様が、俺の大きな手を自身の両手で包み込み、祈るように握りしめていた。
「大丈夫ですよ。結果はどうあれ、わたくしは後悔しておりませんから」
「大丈夫なはずがございませんわ!わたくし、昨夜は一睡もできず、ソーン領の石灰岩を百個数えて夜を明かしましたのよ!」
「バーティ」
シャーロット様が身を乗り出し、鋭い眼光で教員席を射抜く。
「もし不当な結果が出たら、わたくしが今すぐ理事会に殴り込みに行くわ。アシュリー家の名に懸けて抗議してあげる」
「本当におやめください。立場が悪くなりますわ。……わたくしのではなく、学院の」
壇上に、ミセス・ホロウェイが立った。その手には、一枚の羊皮紙。講堂は、雪が降り積もったかのような静寂に包まれた。
「――御用商人の選定結果を、発表いたします」
俺は膝の上でそっと手を組んだ。商会席で、オーウェンが今にも失神しそうな顔で身を硬くしている。対照的に、ヴィクトリア様は凛とした姿勢で一点を見つめ、微動だにしない。
「理事会、教員会、および全生徒の意見を集約いたしました。厳正なる審査の結果――」
ミセス・ホロウェイが、ゆっくりと書面を広げた。
「セント・アグネス王立女学院、次期御用商人。……グレイ商会に決定いたします」
――。
一瞬の空白の後、講堂が物理的に揺れた。
令嬢たちが一斉に立ち上がり、割れんばかりの歓声と拍手が爆発する。
「バーティ様ぁぁぁ!」とリリー様が俺の手を握ったまま泣き崩れ、シャーロット様が勝利のガッツポーズを決め、エレノア様は感極まって扇子を床に落とし、イザベラ様は震える手でその光景を手帳に刻もうとしてペンを落とした。
俺は、座り込んだまま動けなかった。
(……勝った。本当に、勝ってしまったのか)
実感が湧かなかった。一年前、母上に「うっかりサインしちゃったから行ってきな」と放り出されたあの日。俺は本気で、三日でバレて不審者として捕まると思っていた。それが、まさかこの場所で、最高峰の令嬢たちに祝福される日が来るなんて。
商会席を見れば、オーウェンが両手で顔を覆い、肩を激しく震わせていた。
――ああ。
それを見て、俺の喉の奥も、ようやく熱くなった。
発表が終わり、人だかりを抜けて廊下に出たところで、ヴィクトリア様に呼び止められた。
「グレイ様」
振り返ると、彼女はいつも通りの完璧な姿勢で、いつも通りの静かな微笑を浮かべて立っていた。
「……おめでとうございます。完敗です」
「アシュフォード様……」
「本心から申し上げておりますのよ。わたくし、あの日からずっと負けると思っておりましたもの。予想が的中しただけです」
俺は、何と言えばいいか分からなかった。彼女の発言は完璧だった。自社の弱点を認め、価格を下げると宣言し、当主の覚悟まで見せた。商人として、あれ以上の正攻法はないはずだった。
「……アシュフォード様。あなたの言葉は、この上なく見事でした。わたくしこそ、あの日、あなたの高潔さに当てられましたわ」
「ええ、そうでしょう。わたくしも十年商売を学んで、あれが人生最高の出来でしたわ」
彼女はあっさりと言い切り、窓辺に歩み寄った。中庭では、冬の光を反射して、俺が削った予算で造られた噴水が、誇らしげに水を噴き上げていた。
「グレイ様。わたくし、あの日何を話したか覚えていらして?」
「三年間一度も切らしていない供給の確かさと、価格の是正について……ですね」
「ええ。全部『当商会の話』ですわ。では、あなたは何を話しましたの?」
「……座を、信用の証文として使うのをやめてほしい、と」
「そう。それは『学院の話』ですわね」
――。
「わたくしは『自分たちを選んでください』と申し上げました。あなたは『選び方を変えてください』と申し上げました。同じ場所に立ち、同じ時間を与えられて……わたくしは己の利のために、あなたは学院の未来のために言葉を紡いだ。学院がどちらを誠実と呼ぶか、答えは明白でした」
彼女は自嘲気味に笑い、そしてまっすぐに俺を見た。
「一つ、白状してもよろしくて?わたくし、あなたの陳述を聞きながら、猛烈に腹が立ちましたのよ」
「……申し訳ございません」
「いいえ、腹が立った理由が問題なのです。わたくし、あなたのことを『ずるい』と思ってしまったの。自分の勝ちを減らす提案をして、それで人の心を奪うなんて、あまりに卑怯だと。……けれど、それは違いましたわね。あなたは勝つためにあれを言ったのではない。……言わずにいられなかったのでしょう?」
俺は静かに頷いた。
「ええ、存じておりますわよ。それがあなたの『性分』ですものね」
彼女は不意に口元を抑えた。そして、肩を震わせ始めた。
「アシュフォード様?」
「あっ……ふふ、あははははっ!ああ、もう!」
俺は呆然とした。彼女が声を上げて笑うのを、初めて見た。
「だって、おかしいでしょう!?わたくし、十年よ!九つから帳場に座って、契約書を読み、番頭を従えて十年!その全部を注ぎ込んだ完璧な戦略が、あなたの『性分』ひとつに……ただの『我慢できない』という反射に負けたのですもの!」
彼女は涙を浮かべ、廊下に響くほど笑い続けた。
「対策の立てようがございませんわ!勉強のしようもございませんもの!……ああ、愉快ですわ」
彼女はひとしきり笑い、涙を拭うと、すっと元の完璧な淑女へと戻った。
「グレイ様。二年後の約束、忘れないで。学生代表という肩書きを脱ぎ捨てて、価格と実力で戦う日を」
「……ええ。お待ちしております」
「その時までに、わたくしは自分の足で港を歩けるようになっておりますから。……そして、今度は必ずあなたに勝ちますわよ」
彼女は一礼し、踵を返した。そして二歩進んでから、ふと振り返った。
「グレイ様。……この一年、楽しゅうございましたわ」
彼女はそれだけ言い残し、去っていった。その背中を見送りながら、俺は胸の奥がチクリと痛むのを感じた。
二年後、彼女の前に立つのは「アルベルタ・グレイ」ではない。だが俺は、それを言えなかった。
夕方。商会席の裏で、オーウェンを見つけた。
「若……アルベルタ様」
「オーウェン。お疲れ」
「……よかったです。本当に、よかったです。すぐに母君へ知らせます」
彼は帽子をぐしゃぐしゃに握りしめ、鼻をすすった。
「若旦那。……旦那様の墓に、報告してきてもいいですか」
「……ああ。行ってやってくれ」
オーウェンは深々と頭を下げ、足早に帰っていった。
その夜。自室に四輪花の面々がなだれ込んできた。
「バーティ!これであなたはずっと、この学院に関われますのね!」
エレノア様の一言に、俺は心臓が止まるかと思った。
「……え?」
「御用商人ですもの!これから毎年、あなたが納品に立ち会うのでしょう?」
「まあ!ではまた学院でお会いできますのね!」
「わたくしも、算術の勝負を続けられるわ。納品のたびに学院で特訓ね!」
……皆様。
俺は、口を開き、そして言葉を飲み込んだ。
御用商人になるのは、あくまでグレイ商会だ。納品に来るのは、番頭か、あるいは男の姿の俺だ。アルベルタ・グレイという少女は、卒業式の日に、この学院から永遠に消えるのだ。
「……ええ。そうですね。これからも、よろしくお願いします」
俺は嘘の上塗りのような微笑を浮かべた。歓声を上げる三人。だが、イザベラ様だけが少し離れた場所で、射抜くような眼差しで俺を見つめていた。
五日後。実家の母上から手紙が届いた。
中には、紙が一枚。
『よかったな』
たったそれだけ。裏返しても何も書かれていない。
女装して、名門学院に潜入し、破産を救い、王太子に目をつけられ、死ぬ気で御用商人の座を勝ち取った一年。そのすべてに対する返信が、たったこれだけ。
俺は机に突っ伏した。そして、笑った。声を殺して、腹を抱えて笑い続けた。
ああ、そうだ。この人は、こういう人だ。
「やってみて駄目だったら、その時考える」と言って俺を送り出した人だ。駄目じゃなかったのだから、これ以上の言葉は必要ないのだ。
バレろよ。
なあ、頼むよ。
母上、一年分の返事が一言って、あんまりじゃないですか。
でも、それ以上に深刻な問題があるんです。
あの四人が、これからも「アルベルタ」に会えると思っている。
誰か気づいてくれ。
卒業式で消えるのは、ただの生徒じゃない。
この一年、皆に愛された「アルベルタ・グレイ」という、この世に存在しない少女なんだよ。
その夜、俺は母上への返信を書き記した。
『母上。手紙を受け取りました。一年分の労いとしては極めて少ないと思いますが、母上らしくて安心しました。
石灰の事業は順調です。卒業式は来月末。……母上、最後です。来られますか?』
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