第33話:三週間のアルバート
ソルトポートの港は、冬の寒風の中でも変わらず、むせ返るような潮の匂いがした。
俺――アルバート・グレイは、乗合馬車を降りた瞬間、その匂いを肺の奥まで力いっぱい吸い込んだ。
半年ぶりだ。夏の休暇はわずか二日の滞在だったが、今度は三週間ある。まるごと、嘘をつかなくていい三週間だ。
俺は実家の商会の裏口から忍び込み、自室へ駆け込むなり、忌々しいドレスを脱ぎ捨てた。
喉の布をむしり取り、肩の詰め物を放り出す。シャツを着て、ズボンを穿き、粗末な上着を羽織る。
鏡を見れば、そこには「アルベルタ」ではない、十七歳の男――アルバート・グレイが立っていた。
「……ただいま」
低い声が出た。裏声を作る必要のない、自分の本当の声。
俺はその場に崩れ落ちるようにしゃがみ込み、数分間、動くことができなかった。
異変に気づいたのは、その日の夕方のことだった。
「若旦那、おかえりなさい!」
番頭のオーウェンが、鼻息荒く倉庫から飛び出してきた。
「ああ、今戻った」
「三週間もいられるってのは本当なんですかい?そりゃ助かる!今の時期は冬の塩仕込みで、猫の手も借りたいほどで――」
勢いよく喋っていたオーウェンの言葉が、不意に止まった。彼は怪訝そうに俺の足元を凝視している。
「……若旦那。足、どうしたんです?」
「なんだ」
「歩き方ですよ。なんでそんな、ちょこちょこと歩いてるんです?」
指摘されて、俺は自分の足元を見た。――歩幅が、異常に狭い。
ドレスの裾を踏まず、かつ優雅に見えるための「令嬢の歩き方」が身体に染み付いて、ズボンを穿いているのに膝から下だけで動いていた。
「……癖だ。気にするな」
俺は意識して大股で、ガシガシと石畳を蹴って歩いた。だが、三歩も歩けば意識がそれ、すぐに歩幅は上品なそれに戻ってしまう。オーウェンの心配そうな視線が、背中に刺さって痛かった。
その夜、職人たちとの夕食の席で、さらなる失態を犯した。
港の男たちの荒っぽい食卓。皿を回し、肘をつき、笑い飛ばす。学院の静謐な食事とは対極にある場所だ。
「若旦那、こっちの煮魚も食いねえ!」
「ああ、恩に着る」
俺は皿を受け取ろうとして、動きを止めた。
――左手が、無意識に右手の「存在しない袖口」を優雅に押さえていたのだ。
袖が料理に触れないようにする淑女の作法。シャツの袖には何の飾りもないというのに。
「若旦那……?」
「……いや、なんでもない」
さらに、番頭が俺のグラスに酒を注ごうとした瞬間、俺は反射的にグラスを両手で、しかも少し斜めに傾けて恭しく受けてしまった。
食卓が、しん……と静まり返る。
「若旦那。学校で……何か恐ろしい目に遭ってるんじゃありませんか?」
「何もないと言っているだろう!これは、その……一種の精神修養だ!」
俺は酒を一気に煽った。喉を焼く酒精の熱さだけが、辛うじて俺が男であることを証明してくれていた。
翌日から、俺は死に物狂いで働いた。
塩の仕込みは重労働だ。海水を煮詰め、かき混ぜ、乾燥小屋へ運び、袋に詰める。
俺は上着を脱ぎ捨て、汗にまみれて釜を回した。
「若旦那、無理しなさんな!」
「いいから貸せ。身体を動かさないと、頭がおかしくなりそうなんだ」
腕はちゃんと動いた。この一年、書類のせいで太くなったと言い張ってきた筋肉は、実戦を求めていた。
三日で感覚を取り戻し、五日目には乾燥小屋の棚の配置を、効率の観点から組み替えた。七日目には工程の無駄を徹底的に排除し、袋詰めの手順を刷新した。
「若旦那……あんた、女学院で一体何を学んできたんです?うちの作業効率が二割も上がっちまった」
呆れ顔のオーウェンに、俺は袋の口を縛りながら答えた。
「学院の支出削減を叩き潰す日々を送っていたら、無駄を見つけるのが病気になっただけだ。……学院とは何の関係もない」
十日目。店に王都からの客が訪れた。
俺は帳場に座り、男の格好、男の声で商談に臨んだ。一年ぶりの、まともな商売だ。
相手は王都で手広くやっている乾物問屋の主人。彼は店内を見回し、俺の顔を見てにやりと笑った。
「グレイ商会さんですな。ここが、あの『四輪花』のモデルになった……」
俺は湯呑みを持つ手が一瞬だけ震えるのを、必死で抑えた。
「……左様で。跡取りのアルバートと申します」
「いやあ、格式高いと聞いていたが、思ったより気風のいい店だ。金の積み増しを断られたと聞いて、どんな偏屈な主かと思っておりましたよ」
主人は身を乗り出し、声を潜めた。
「ところで……あの中に出てくる令嬢。アルヴィナ・グレイス。あれ、お身内でしょう?」
俺は無表情を貫くため、商人の仮面を貼り付ける。
「……姉です」
口が勝手に、最短ルートの嘘を選んでいた。
「おお、やはり!うちの家内が大ファンでしてね。背が高くて、儚げで、けれど誰よりも男らしい淑女……。やはり、実物もそんな風で?」
(誰が儚いだ。今、あんたの目の前で塩袋を担いでいるのがその本人だ)
「まあ……真面目だけが取り柄の、普通の女ですよ」
「いやはや、一度お会いしてみたいものだ。家内が言うには、あの方は『下手な男よりよほど骨がある』そうで」
商談自体は問題なく終わった。塩十樽の半年契約。帰り際、主人は俺の肩を強く叩いた。
「若旦那、あんたもいい商人になる。姉さんに、よろしく伝えてくれ」
「……ええ。しかと」
客が帰った後、俺は帳場で頭を抱えた。オーウェンが横から「お嬢はお元気ですかなあ」とニヤついていたが、俺はそいつを算盤で殴るふりをして追い払った。
三週間は、瞬く間に過ぎた。
塩を仕込み、新規事業の石灰の販路を固め、商会の帳簿を三度締め直した。
最後の夜。俺は子供の頃からの逃避場所である、倉庫の屋根に登った。
冬の海は黒く、灯台の光だけが規則的に闇を切り裂いている。
「若旦那、危ねえですよ」
オーウェンが梯子を登ってきて、隣に座った。
「あと一学期ですか」
「ああ」
「終わったら、帰ってきますよね」
「……帰る。当たり前だ」
オーウェンはしばらく黙っていたが、不意にこう尋ねてきた。
「……学院、楽しいですか?」
俺は即座に「そんなわけないだろう」と言おうとした。
喉は布で擦れ、肩は凝り固まり、二十四時間嘘をつき、四人の令嬢に振り回される日々。楽しいはずがない。
なのに、言葉が詰まる。
「……分からん」
「分からねえんですか」
「ああ」
オーウェンは、短く笑った。
「そりゃあ、楽しいってことですよ。本当につまらなかったら、即答できますからね」
翌朝。俺は自室で、再びあの女装を広げた。
三週間ぶりのドレス。喉に布を巻き、肩に詰め物を入れ、袖に腕を通す。
筋肉の戻った腕は少し袖をきつく感じさせたが、俺は鏡の前で完璧な姿勢を作った。
顎を引き、背筋を伸ばし、歩幅を狭める。
「……ごきげんよう」
出た。一発で、透明感のある理想的な裏声が出た。
三週間離れていたはずなのに、身体はこちらの方が正しいと言わんばかりに馴染んでいる。
鏡の中の自分を見て、俺は愕然とした。
――落ち着いていた。
ドレスを着た瞬間、全身の余計な緊張が消え、深い安堵感に包まれていたのだ。
この一年、俺はこの服を牢獄だと思ってきた。なのに今、袖を通した俺は「これこそが今の自分だ」と魂が納得してしまっている。
(まずい。これは、本当にまずい)
馬車に乗る時、俺は無意識に裾を汚さぬよう指先でつまんだ。
シャツを着ていた時ですら、歩幅は戻らなかった。
自分を指して「姉です」と平然と言い放った。
バレろよ。
なあ、頼むよ。
いや、それよりも誰か――俺に思い出させてくれ。
俺が誰だったのかを。
遠ざかる港の匂い。膝の上で揃えられた俺の手は、あまりにも完璧な令嬢の手だった。
その夜、学院に着いた俺は、母への手紙に今日一番の震える本音を書き記した。
『母上。学院に戻りました。石灰の件、王都の組合へ正式に持ち込んでください。商会の新しい柱になります。
――母上。
ドレスを着るのが、恐ろしいほど上手くなりました。脱いだ後の自分を、うまく思い出せません。卒業まで、あと二ヶ月。俺は無事に「アルバート」に戻れるのでしょうか』
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