幕間6:帳場に立てない商人(ヴィクトリア視点)
商売敵の視点です
私が初めて帳場に座らされたのは、九つの年。
ヴィクトリア・アシュフォード。王都最大の商会を営む家の、一人娘。
兄がいなかったから、父は私を跡取りとして厳格に育てたわ。刺繍や詩を学ぶ代わりに、私に与えられたのは複雑な契約書と分厚い帳面。九つで帳場に座り、十で番頭の裏話を聞き、十二で仕入れの帳面を完璧につけ、十四になる頃には一流の法律家でも見落とすような契約書の不備を見つけられるようになった。
自慢ではないの。ただ、そう育てられたというだけの……私にとっての当たり前。
だからこそ、私は商人としての自分に、一度も疑いを持ったことがなかった。――去年の春、あの方が編入していらした、あの日までは。
背が高く、堂々とした立ち振る舞い。そして、港町の商家の出。
正直に申し上げて、最初は何も感じていなかったわ。地方の中堅商会が、王立学院の御用商人の座を狙う……。志が高いのは結構だけれど、勝負にはならない。当商会の年商はあちらの三十倍以上。扱う品目も、倉庫の数も、抱える職人の数も、すべてが桁違い。商売というのは志だけで決まるものではないと、そう確信していたもの。
あの方と初めて話したのは、生徒会室。
私は会計監査を務めていた。学院のあらゆる支出に判を押す立場よ。
あの日は、式典用のワインの見積もりが上がってきた。中堅の商社が持ち込んだもので、額も妥当。私はペンを取った。
そこへ、あの方が待ったをかけたの。
南部産の年代物のワイン。昨年の長雨で品薄になっていたはずが、先週ソルトポートに貨物船が入り、秘蔵の千本が王都に持ち込まれた。卸値は七割まで落ちている。そして輸送費。当商会の自社馬車を使うなら、中継倉庫の使用料は発生しない。
つまりその業者は、当商会の看板を隠れ蓑にして、金貨20枚を自分の懐に入れようとしていた。
私は、それを見抜けなかった。会計監査を務める私が、自分の商会の名を守れず、他所の商会の娘に守っていただいたのよ。
あの日、私は握手をした。
契約のつもりだった。いつか市場の全てを賭けた商談をしましょう、と。……今にして思えば、あれは貸し借りね。
私のほうが、借りていた。
けれど、本当に驚いたのは、その翌日。
私は、一晩考えたわ。
あの計算をどうやって出したのか。港の入港記録を、なぜ学院にいる者が知っているのか。ワインギルドの公示を、どこで読んでいるのか。
そして翌朝、あの方は、いつも通りに授業を受けていらした。
私が一晩かけて考えたことを、あの方は覚えてすらいないお顔で。
(――ああ)
私は、そこで理解した。
あれは、日常なのよ。あの方にとって、港の記録を読み、相場を追い、値を割り出すことは、息を吸うのと同じ。
特別なことをした自覚が、まったくないの。
――そして、あの予算会議。私は負けたわ。
いいえ、書面の上では勝った。けれど、あれを勝ちと呼ぶには私の矜持が許さない。
一時間半、私は一度も価格の正当性を主張できなかった。紅茶が卸相場の1.8倍、蝋燭が2.3倍。あの方は休日に王都の卸を自ら回り、東部の窯元で出荷記録を直接確かめて、逃げ場のない数字を突きつけてきた。私が持ち出せたのは、品質や供給責任という抽象的な概念と、そして父が用意した契約条項だけ。
私は、守り方の話しかしていなかった。
父が七年前に定めた、切り替えを拒む条項。私は、自分の言葉ではなく、父が遺した過去の一行に救われただけ。
あの日、私は初めて、自分が何者なのか分からなくなった。十年商売を学んできたのに、一度も自分の足で港を歩いたことがない。番頭の報告を読み、帳場で数字を眺める。それを商売だと信じ込んでいた自分を、あの方は「樽を担いで台帳を見せてもらった」というその一言で、無惨に打ち砕いたのよ。
父に書いた、初めての定例外報告。父の返事には、こうあったわ。
『負けかけていると気づいた時に、それを書ける者は多くない。その相手に、会っておけ』
父は、学院向けの価格を見直すと約束してくれた。条項という鎖で縛るのではなく、選ばれる形にするのだと。――「切られない商会」と「選ばれる商会」は、違う。私はその言葉を書き留めて、今も机に置いている。
それから、あの橋の崩落。
冬季分の物資が間に合わない。当商会の無欠の記録が途切れる絶望。
そこへ現れたあの方は、「三日あれば集められる」と平然と仰った。私は止めたわ。あの方は商売敵よ。ここで当商会が失敗すれば、あの方の不戦勝ですのに……。
けれど、あの方はこう仰ったの。
『学院が、紅茶を切らすからです』
『正しさが、不運で否定されるのは、市場にとって損です』
――市場にとって、損。
その言葉を、私は生涯忘れないでしょうね。あの方は私を哀れんだのではない。私の「切らさない」という正しさを、商人の矜持として守り抜いた。
三日間、共に走った。伝票にはアシュフォードの名だけが刻まれ、あの方は共同納入の申し出を笑って断ったわ。『あなたの記録に、わたくしの名が入るのは間違っています』と。
……私、あの時、扇子を落としたまま拾えなかった。
あれは同業者への敬意よ。そういうことに……しているわ。
私は、あの方のことを多く知っている。
会議室では声が低くなること。数字の前では目線が一切ぶれないこと。羽根ペンを左に持ち替えて速記すること。……そして、書類を運びすぎて、腕がずいぶんたくましくなっておられること。
学院の膨大な会計を一人で背負い、毎日毎日あの綴りを運べば、女性の身体でもあんなにたくましくなるものなのね。商人は腕力も資本。私も見習って鍛えようかと思っているほど。
ただ、一つだけ分からないことがあるの。
あの方は御用商人の座を取りに来たはずなのに、学院の支出を徹底的に削っておられる。支出が減れば、自分が得られるはずの利益も減るのに。「盛られた見積もりを見ると我慢ができない」……あの方は、戦略ではなく、抗いようのない性分で動いていらっしゃる。
だから、勝てないのよ。戦略なら読み、対策を立てられる。けれど、性分は対策の立てようがないもの。
春の最終審査。残るのは、私とあの方だけ。
正直に言えば、私は負けると思っているわ。実績で勝っていても、あの学院は値段を見ない。三百年、人を、誠実さを見てきた学院。私が数値で勝っていても、数値ではないところで、私は負けるのでしょうね。
――それでも、私は全力で勝ちに行く。
私が手を抜けば、あの方の価値を安く見積もることになるもの。最善を尽くさずに負けるなど、あの方に対して失礼だわ。
そして二年後。当商会との契約が満了する時。その頃には、私たちは学院という舞台を降りている。
『次にお会いする時は、学生代表という肩書きを脱ぎ捨てて参りましょう』
『条項ではなく、価格で』
私は人生で初めて、紙に書かない約束をした。判も、期日も、違約金もない。けれど、あの方は必ず来ると確信している。
……ああ、そういえば。父からの手紙に一つだけ、妙なことが。
『娘が同じ年頃の相手について、その人柄を一行も書かないのは少々おかしい』ですって。
……おかしくなどないわ。商売の報告に余計な情緒を挟まない。
それは、父が私に教えた、アシュフォードの流儀なのだから。
ええ。それだけよ。
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