第31話:四輪花、王都に知られる
おかしなことが起き始めたのは、二通の手紙が同時に届いた日のことだった。
一通目は、故郷ソルトポートから。
差出人は番頭のオーウェン。――母上からではない。それがすでに異常事態だった。
グレイ商会において、俺に筆を執るのは常に母上だ。あのオーウェンが独断で書いてくるということは、母上が忙殺されてペンを握る暇さえないか、あるいは母上には見せられない現場の悲鳴か、そのどちらかだ。
俺――アルベルタことアルバート・グレイは、嫌な予感を抱きながら封を切った。
『若旦那。字が下手ですみません。急ぎお知らせしたいことがあります。
先月から、うちに変な注文が殺到しています。最初は王都の小売店から三件でしたが、今週は二十二件。みんな同じことを言うのです。「四輪花のグレイ商会さんですか」と。
そして塩を頼まれ、海産物も頼まれます。ここまではありがたい話なのですが、変なのはここからです。
誰も、値を聞かないのです。普通は一樽いくらか、他所より高いからまけろと言うでしょう。なのに、この人たちは「いくらでもいい」と言う。味も、粒の大きさも、産地すらも聞きません。
途中で気づきました。この人たち、うちの塩が欲しいんじゃないんです。「小説に出てくる商会から買った」という話が欲しいだけなんです。
昨日、王都の大問屋が直接来ました。年に銀貨600枚分――うちの年商の半分をうちから買いたいと。母君はその場で断りました。俺は正直もったいないと思い、理由を聞きました。母君はこうおっしゃいました。
「あの客は、塩を買ってない。話を買ってるんだ」
「話ってのは飽きる。半年か、一年か、そのくらいでな」
「その量の注文を受けるには、人を雇って、倉庫を借りなきゃならない。飽きられた時、注文だけが消えて、人と倉庫の維持費が残る。そこで潰れるんだよ、商会ってのは」
俺も、その通りだと思いました。でも、若旦那。断ってばかりでいいのでしょうか。「あそこは注文を受けない商会だ」と悪評が広がるのが怖いです。どうしたらいいのか、俺には分かりません。オーウェン』
俺は、その手紙を三度読み返した。
年間銀貨600枚。金貨に直して6枚。それを、母上はその場で切り捨てた。
俺は帳面を開き、頭の中で計算を走らせた。
(……正しい)
今のグレイ商会の規模でさばける限界は、月あたり銀貨80枚分だ。それを超えれば、必ずどこかで質が抜ける。塩の乾燥が甘くなり、海産物の選別が雑になる。母上の判断は、商人として一点の曇りもなく正しい。
だが断り続ければ、機会損失だけでなく「信頼の拒絶」という烙印を押される。オーウェンが危惧しているのはそこだ。一度門前払いをした商会に、二度目の商談は訪れない。
攻めるか、守るか。
二通目の手紙が来たのは、その三日後だった。こっちは学院宛てである。
朝食の席。ミセス・ホロウェイが幽霊のように青い顔で俺たちの卓へ近づいてきた。
「……ヴァンスさん」
「はい。何かしら、ホロウェイ先生」
「王宮より、親書が届いております。――エドワード王太子殿下より、あなた宛てです」
卓が、氷を投げ込まれたように静まり返った。エレノア様は戸惑いながら封を切り、中身に目を通した。――そして、みるみるうちに、彼女の顔から血の気が引いていった。
「エレノア様?」
「……終わりましたわ」
「エレノア様!?」
「わたくしの人生、本日をもって……完結いたしましたのよ……っ!」
エレノア様は両手で顔を覆い、絶望に震える声でその書状を読み上げた。
『エレノアへ。先日、母上――王妃陛下より一冊の本を勧められた。「女学院の麗しき四輪花」という題である。王都でたいそうな評判だと聞き、読んでみた。――そなたが出ておるな。公爵令嬢エレオノーラ。見た目、家柄、婚約者がいること。すべてが、そなたと同じである。そしてこの令嬢の婚約者は「話が長く、水路の話ばかりする、退屈な男」と書かれておる。
エレノア。余はそなたに聞きたい。余の話は、そんなに退屈か』
俺は、ゆっくりと天井を見上げた。……イザベラ様。あんた、やりやがったな。
卓の端で、イザベラ様が実に優雅な所作で紅茶を啜っていた。彼女は目を伏せたまま、全く動かない。
「イザベラ!!」
「あら。……書いてしまいましたわね」
エレノア様の絶叫に、彼女はしれっと答えた。
「わたくし、聞いておりましたもの。エレノア様が中庭でバーティ様に愚痴をこぼしていらしたのを。三歩離れた東屋で、しっかり取材させていただきましたわ」
「盗み聞きですの!?」
「作家の耳は、真実を拾うためにあるのですわよ」
この作家、本当に容赦がない。だが、話はそこで終わらなかった。書状には、俺の心臓を止めるに十分な続きがあったのだ。
『追記。この本には、もう一人、面白い人物が出てくる。商家の娘、アルヴィナ・グレイス。学院の帳簿を立て直し、王家からの下賜金を掛け合って復活させた者として描かれておるな。余は、王室財務府に確かめた。実在するそうだな。
余は、この者に会いたい。春の卒業式に余が臨席する。その折に、引き合わせよ』
俺は、椅子から転げ落ちそうになった。
「――は?」
「バーティ……殿下が、あなたに会いたいそうですわ」
「……卒業式に?」
「ええ。殿下自ら、いらっしゃると」
指先が震え、冷や汗が背中を伝った。
王太子が、来る。俺に会うためだけに。
「……イザベラ様。なぜ、下賜金のことまで書かれたのですか」
「事実ですもの。物語に彩りを添えるには最高のエピソードでしょう?」
「王宮に届くとは……思わなかったのですか」
「まさか。王妃陛下が大衆小説の愛読者だとは、計算外でしたわ」
その日の午後。俺はもう一度、オーウェンの手紙を読み返し、即座に返信をしたためた。
『オーウェンへ。手紙をありがとう。字は下手じゃない。
注文の件、母上の判断は正しい。断ってくれ。ただ、断り方を変えてほしい。
今は「うちにはさばけない」と言っているだろう。それを、こう変えるんだ。
「今の量では、品を落とさずに納めることはできません。人手と倉庫を整えるのに二年かかります。二年後、また声をかけてください」
これで断りは約束に変わる。受けない商会ではなく、二年後に受ける商会になる。その時本当に受けられるかは、その時に考えればいい。
母上に伝えてくれ。ペンブローク商会の話を聞いてきた。百年の信頼も、説明する筋道をなくせば三日で終わる。うちは今、説明できる商会だ。大きくなった時に、それを保てるかどうかが分かれ道だ。二年の時間を稼げ。アルバート』
夕方。冬の澄んだ空気の中、中庭のベンチに座って噴水の音を聞いていた。
王太子が来る。
理由は、学院の帳簿を立て直した商家の娘に会いたいから。
用水路の話を二時間する男。……そして俺は、用水路の投資対効果を熱く語れる商人だ。
――たぶん、話は合ってしまう。最悪なことに、盛り上がってしまうだろう。
ドレスを着て、喉に布を巻き、公爵令嬢が「退屈」と切り捨てた男と、俺はインフラ整備の夢を語り合わなければならないのだ。
バレろよ。
なあ、頼むよ。
いや、今はやめてくれ。卒業式まで残りの期間、誰も俺が男だなんて気づかないでくれ。
俺がうっかり作った偶像が、俺の手を離れて、勝手に大きくなっている。
俺の手にはもう、この暴走する物語を止める力は残っていない。
その夜、俺は実家の母上への手紙に、今日一番の絶望を書き記した。
『母上。オーウェンへの指示を確認してください。
それと、卒業式に王太子殿下がいらっしゃることになりました。俺に会いたいそうです。
――母上。俺は大丈夫でしょうか。用水路の話で盛り上がって、うっかり地声が出る自分の姿が、今から夢に出てきそうです』
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